蔡國強との対話――黒い花火、白い飛行機雲

donburaco2008-12-17

いま発売中の『美術手帖』最新号(2009年1月号)に、蔡國強さんにインタビューをした記事が掲載されています(ARTIST INTERVIEW)。北京オリンピックの開会式の花火がCGだったという報道に気を揉んでいた僕としては(8/13付ブログ「北京五輪開会式:蔡國強の花火のCG問題を推論する――真偽を越えて」)、マスコミが煽る中国イメージを越えたところで本人の声が聞きたかったわけで、その希望が今回インタビュー取材というかたちでかなったものです。

ちなみに、29個の足跡の花火は実際に打ち上げていたことも無事本人の口から確認できました。それでもCGを使った理由について、そして、スピルバーグの芸術顧問辞任劇の裏話やチャン・イーモウとの関係などについてもしっかり話してもらいましたので、ことの詳細はぜひ『美術手帖』を読んでみてください。

インタビューはヒロシマ賞受賞記念展(1月12日まで)のために来日した蔡さんが、10月25日に原爆ドーム上空で行った花火パフォーマンス《Black Fireworks》の翌日に行われたのですが、まずはその「黒い花火」の映像を。まるで墨絵の制作過程のように黒雲が”加筆”されていきます。


この花火パフォーマンスに先立つ10月21日、Chim↑Pomが広島上空に「ピカッ」というカタカナの文字を飛行機雲で書き、市民からの抗議を受けたという事件が新聞やインターネット上でもさまざまな論議を巻き起こすという騒動にまで発展しました。もちろんこの一件についても蔡さんに聞きましたので、これは面白いインタビューになっていると思います。

Chim↑Pomの「ピカッ」と蔡の爆発(ドーン)ところで、僕は今日までChim↑Pomの一件に関しては文字にすることを控えていたのだけれど、それは評論家としてChim↑Pomと親しいからではなく、むしろ編集者として核爆発に関する書物を編んだ経験から容易に論じえない(少なくともこれもまた善か悪かといった二元論でははかれない)ことを自覚していたからです。なので広島固有の市民感情はじゅうぶん理解できるし、マスコミ報道の姿勢やそれに対する美術館やアーティストの対応について個人的に思うことはあってもとやかく言うつもりはありません。ただ、蔡さんの見解もこうして出版物を通じて公表されたので、これを機に何か書いておくとするなら、それはChim↑Pomの飛行機雲という「作品未然の表象」と、蔡國強の《黒い花火》という「作品表象」をつなぐ表象論的な問題について、です。

美術手帖』のインタビューの中で蔡は、「(現実の)爆発ではなく『ピカッ』という文字で光を表現した」ことは「コンセプチュアル」な「アートとして評価してあげたい」と言う(その上で、市民の気持ちへの配慮に欠けており、対話を通じて理解してもらうという姿勢が必要だったことを、自らの94年の広島アジア大会の開会式のイベント演出プランが実現に至らなかったことを例に説く)。マンガ文化に染まった我々にとっては日常的なオノマトペも、美術としてみれば至極「概念的」なのだということにあらためて気づかされたが、確かにChim↑Pomの狙い――それも蔡に向けた暗黙のメッセージ――もそこにあったはずだ。

考えてみれば、Chim↑Pomの飛行機雲によるドゥローイングはおそらく蔡國強のパブリックな爆発イベントの「後」に行われていれば、市民やマスコミの反応はずいぶんと違うものになっていただろう。Chim↑Pomは作品制作に必要な撮影だけを目的とするならば、むしろそうしたほうが大きな波風は避けられたのかもしれない。

にもかかわらず、彼らが蔡の後手にまわるという安全な経路を選ばず、あえてゲリラ的であっても蔡よりも先に遂行しなければならなかった理由は、その文字がもたらす意味作用にある。カタカナ三文字で記された眩い発光を表すその擬態語(ピカッ)は、蔡の花火が引き起こす物理的な爆発(擬音化するならばドーン)の後ではなく、前に来なくてはならなかった。「ピカッ」の後にドーン。なんともベタな連鎖ではあるが、Chim↑Pomの飛行機雲は、蔡よりも先に蔡と同じ原爆ドーム上空に描くことで、後から「ピカドン」という言葉を想起させたかったに違いない。Chim↑Pomが展覧会に出品しようとしていた「作品」は千羽鶴をモチーフにした作品だったと聞くが、少なくとも「作品以前」のパフォーマンスにおいて駄洒落的ではあるが一応の「表現」として意図したものは、擬態語と擬音語の時系列的な接続だったのだろうと推察できる。
ちなみに僕は以前、1980年代以降の日本のマンガに見られるコミカルな爆発シーンの擬音「ちゅどーん」が実は「ピカドン」とよく似た構造の擬態+擬音の連結語であることを論じたことがある(拙稿「爆発の美術館」:『ユリイカ』1996年8月号特集「ジャパニメーション」所収)。


ただ、Chim↑Pomにはおそらく「ピカ」が戦後数十年間にわたって原爆に対する激しい怒りや原爆症に対する差別意識をも含むネガティブな言葉として用いられてきた歴史的認識や配慮がなかった。あるいはあったにしても甘かった。その認識不足を擁護するつもりは毛頭ないが、それをピカチュー世代に求めることはもはや難しいのが現実なのではないか(ため息)。空に書かれた「ピカッ」が不快感をもよおしたのはわかるが、では空を飛び交うテレビ電波に乗ったピカチューの叫び声(ピカピカチュー!)には問題はないのか。おそらくは「ポケットモンスター」の作者にもその音のもつ負のイメージに対する自覚はない。
戦中戦後の差別語が狩られ、不快語と称される言葉までもが事なかれ主義やリスク回避を優先する新聞社・テレビ局・出版社などメディア自身の手でことごとく自主規制される今となっては、「ピカドン」や「ピカ」は一般的なメディアにおいては中沢啓治の『はだしのゲン』の劇中でしか当時の用法(たとえば原爆症を指して「ピカがうつる」等)を伺い知ることはできない。ここから先の話は平和教育や国語教育やマスコミの用語規制の問題になるので、詳述はまた別の機会があれば、としたい。
やさしくひらいた言い方をするならば、それはことばとこころをめぐるモンダイということになる。

ヒロシマの戦争遺跡を歩く
今回の広島行きでは久しぶりに広島平和記念資料館を、加えて国立広島原爆死没者追悼平和祈念館を初めて訪ねた。祈りのための空間と死没者の写真と名前を検索できる電子展示は、フィジカル(物質)からディジタル(情報)へ移行することで史料性よりも精神性に比重が傾けられた21世紀型のパブリックなメモリアルとして興味深い。建築設計は丹下健三・都市・建築設計研究所。

被爆死没者の顔写真が映し出されるモニタ・ディスプレイ。美術と比較するのも何だが、ある意味ボルタンスキーやゲルハルト・リヒター、あるいはアンディ・ウォーホルのいずれをも凌駕している。


また、広島市現代美術館の位置する比治山公園の道を挟んだ南側に足を運ぶ人はほとんどいないが、じつは陸軍墓地放射線影響研究所など数かずの戦争遺産や原爆関連施設のある場所なのだということを知り、蔡國強展と同時にそれらを見て回るべきだという気がして地図を片手に歩いてきました。


原爆による殉職警察職員の慰霊碑。写真ではスケール感がわかりにくいがかなり巨大。碑前の焼香台の大きさから察すべし。被爆後の比治山公園はたくさんの身元不明の遺骸の集積場になったらしい。

放射線影響研究所。『はだしのゲン』劇中で被爆者を人間扱いせず実験動物のように検査してまわるABCCである。漫画に描かれているのと同じカマボコ兵舎型のミッド・センチュリー風の建築がそのまま残っている。これが現存していることにはかなり驚いた。

陸軍墓地。明治以来の戦役で戦死した無名兵士が県別に墓標となって並ぶ。沈没した外国軍艦の兵士を追悼する墓碑もあった。秩序と無秩序の混在する様相は、たとえば靖国神社と比較するとむしろアナーキー戦没者追悼空間に感じられる。


爆心地周辺の復興事業として、そして戦後日本の民主主義と平和への理想を掲げた国策のもとにゼロから建設された平和記念公園丹下健三モダニズムで設計された「陽」の近代戦争遺跡ならば、古くから地形的に意味をもつ比治山に置かれたこれらは戦後手つかずのまま取り残された「陰」の部分に見える。
いわば曰く付きのその場所に広島市現代美術館が建てられていることを知ると複雑な気持ちにもなるが(ちなみに美術館の設計は黒川紀章である)、それはどこか「現代美術」そのものの役回りを象徴しているように思える。

「現代」は過去の上に立脚しながらも「いま」を歴史から分断し続ける。ただ、それは「陰」を明るい光で覆い隠すものではなく、むしろ「陽」の論理とは別に「陰」の存在理由を示すことのできるものでなければならない。現代美術と美術史との関係も同様だと思う。
そう考えると、蔡國強が国際的(ないしは国家的)イベントの夜空に打ち上げる大掛かりな花火はポジ(陽像)であり、近年美術パフォーマンスとして日中上げる小さな黒煙花火はそのネガ(陰像)なのだと自ら語る言葉が、あらためて深い意味をもってくる。