千羽鶴とモスキート──広島のシンボルと若者排他装置

少し前の話になりますが、Chim↑Pomの「ピカッ」騒動の顛末とさまざまな意見からなるテキストを収録した本が3月末に出版されました。ぼくも拙稿「ピカとドン―閃光と爆音 あの雲について、蔡國強との対話から」を寄せています。この本です。

なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか

なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか

見返しには千羽鶴。帯のコピーは天才バカボン調。辞書風の造本デザインは手にした感じが意外にいい。そもそもハードカバーで立派な本は彼らには似合わないし、ソフトビニールカバー装は学習意欲を刺激するというか、繰り返し調べるように読む行為をアフォードする、のかもしれない。

先週発売された『美術手帖』2009年6月号でChim↑Pomの「広島!」展と本書のレビューが掲載されているので、この機に少し記しておこう。

この本の最大の功績は、この本が出る前と出た後の美術界の空気を入れ替えたことだ。実際この本が出る前はぼく自身も悶々した思いを抱えていながら文章に表出しづらい抑圧感や緊迫感を感じていた。アーティスト自身も、他の関係者も、思うところある人びとはみなそうだったのではないか。それらをまとめて一気に噴出させた爽快感が、本書刊行と「広島!」展にはあった。
ただ、あまりにスッキリしたせいなのか、誰もが安堵し脱力し、広島の平和芸術と表現の自由の問題についてさらなる議論や行動を活発化させているかというとどうやらそうでもなさそうなあたりが自分でもちょっと不満だったりする。


たむろ防止装置「モスキート」の排他性について
この先議論を続け、問題解決に向かって駒を進めて行くためには、さらに他の事象に果敢に接続していく必要がある。いまの世の中にはもっと得体の知れない抑圧的なシステムが張り巡らされようとしている。
たとえばこれ。
◎たむろ防止装置:騒ぐ若者に不快高周波 自治体初、東京・足立区が公園に設置へ(5/19付・毎日新聞)
◎若者たむろ防止装置「モスキート」(製品案内)

コンビニなどの店頭にある例は知っていたが、公園に行政が導入するのはどうなんだろう。ある特定の年代にだけ騒音に聴こえる高周波装置は、野宿者を排除するための寝そべり防止柵のついたベンチの延長線上ではあるが、可視か不可視か、フィジカルか電波かといった特性においてかなり次元が違う。若者を電波で排除するとはまるで害虫扱いだ。技術としては、テレビ放送でサブリミナル効果が禁止されているように、公共空間での使用は自粛なり制限されるべきものなのではないか。
公園への「モスキート」導入を容認する社会は、公共空間にアーティストが飛行機雲で落書きすることを許さない排他性にそのまま重なる気がする。いや、もしかしたら逆に、ネット住民が集う場所で形成されるネット世論とでもいうべきある価値観に対して、即座に別の文化的な価値観をきちんと提示できなかった美術関係者のほうこそを、不良少年たちを恐れる「モスキート」の設置者に重ねてみることも必要だ。
ここでは旧来のマスメディアvs.スペシャリスト、新興のネットメディアvs.活字メディア、という二項対立における是非ではなく、それぞれのメディアにかかわる人びとに内在する「モスキート」=排他的な装置についての是非がモンダイであり、少なくともその取り扱いにあたっての論議が必要なのではないか。


それはネット世論に投じられた活字のボムだったのか
ところで、川崎昌平の書評(『美術手帖』2009年6月号pp112-113)においては、本書は「多くの執筆者たちはChim↑Pomそのものを特に意識してはおらず、むしろChim↑Pomが起こしたアクションを契機として多様な視点から21世紀に生きる私たちが次に考えるべきことを説いている趣が強い」そして「もし本書がChim↑Pomが自分たちについて語る本だったり、誰かがChim↑Pomを延々論じる本だったりしたら、おそらくつまらない本になっていたに違いない」と書いている。これは冷静に的を射た褒め言葉だしまったく同感だが、書き手の立場から言うと本書がそうならざるをえなかった理由はおそらくふたつある。
ひとつは、まだChim↑Pomの完成作品を誰も見ていなかったこと。正確にいうと、刊行と作品発表が同時に予定されていることは知らされていたので、見たい気持ちをつのらせながらも、見ずに書くことが暗黙のルールとなっていたように思う。
もうひとつは、出版企画書等には明文化こそされてはいなかったが、本書の刊行が中国新聞やネット上でのChim↑Pomや現代美術に対する心ないディス(軽蔑的攻撃)に対して活字で応戦するというミッションを暗黙裏に帯びてしまっていたことだ。

「広島!」展でその作品の全貌をようやく知ることができた後とその前では、言論の環境がずいぶん異なる。川崎さんは「多くの執筆者が『作品としてまだ完結していない』事実を文中に挙げていたが(中略)これはさして重要ではない」と冷静かつ温情のある言葉も添えてくれているが、確かに「広島!」展以後となったいまでは本書のいたるところに頻出するそのエクスキューズはいくぶん奇異に映る。ただ、ぼくを含む執筆者はみな完成作品のイメージをまったく知らない状態、すなわち暗闇を手探りするかのように筆を進めるしかなかった。Chim↑Pomについての評ではなく、それぞれが専門や興味とする関連テーマについて書くことになったのは仕方のないことだったし、20数名の筆者がそうやって言論の戦火を拡大することによって、一元的な倫理観や感情論からなるネット世論を封じようという戦略や戦術が、ある時点から編集者と執筆者相互の編集プロセスのなかで着実に組み立てられていった感触が残っている。その意味ではこの本は共同編者としてChim↑Pomと名を連ねている阿部謙一さんの技量と力量とそして度量によって成立させられた感が強いことはここにぼくが明言しておきたい。
だが、それゆえにこそ逆の見方をしてみるなら、前述したように美術関係者のほうが実は「モスキート」設置者に重なるのではないか、という自戒はそこにある(むろん、そういう両義性を含めて本書はモンダイ作として面白いのだが)。加えて言うなら「美術関係者」といっても到底ひとくくりにできるものではなく、少なくとも本書の出版前の美術界においてはChim↑Pom擁護派のほうがどう見ても少数派だった(多くの評論家やジャーナリストは、ネット上でChim↑Pom以上に「現代美術」があれだけディスられていても口を閉ざしてやり過ごすか知らぬ素振りで無視するかだった)のは一体どういうことだったのか──そのあたりに「現代美術」の弱さが露呈されていたことも認めざるをえない。


ところで、ぼく個人の感想としては、「広島!」展で《リアル千羽鶴》を見た後のいまでは、長年追いかけてきた「キノコ雲」のイメージ論よりも「千羽鶴」について書けばよかったとちょっと悔やんでもいる。
ここから先はその千羽鶴をめぐるシンボル=イメージ論について、画像資料とともにちょっと記してみよう。


千羽鶴のシンボル化とイメージ生成について
ちなみにこれがChim↑Pomの《リアル千羽鶴》(「広島!」展での展示)


本物そっくりの造り物の鶴の展示の脇にイーゼルと画材、描きかけの絵画が置かれていた。自作の千羽鶴を客観視する視点(古典的な「美術」の眼差し)を併置した自己批評的なインスタレーションといえる。


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Chim↑Pomが見て着想を得たという旧日本銀行広島支店にある千羽鶴は、ぼくも前回の広島訪問時に見ていた(同所が「旧中2・CAMPヒロシマ」の会場だったからだ)。
見たときにはこれらがChim↑Pomの作品のインスピレーションの源だったということには気づかなかったのだが、気がつくと写真をたくさん撮っていたのでここに公開しましょう。

全国各地や世界中から平和記念公園に寄せられた大量の千羽鶴

メッセージボード状の”作品”には、平和、Love & Peaceなどの文字が。

後方壁面には「原爆の子の像」の写真パネルが見える

これはChim↑Pomインスタレーションの原型?

捨てられないので何室もの部屋に膨大量が保管・展示公開されている。

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これらの千羽鶴はおそらくもとは平和記念公園に置かれていたもので、たぶんそれが溜まると旧日本銀行広島支店の展示室に運ばれてくるのだろう。

平和記念公園の「原爆の子の像」のまわりには千羽鶴ブースが設置されている

ガラスのケースは2003年の「折り鶴放火事件」以後設置されたものだろうか

近くに設置された碑。「叫び」と「祈り」が対比・接続されている

原爆の子の像」のスタチュー部。折り鶴を掲げている


原爆の子の像」にはモデルがいるが(小学六年生で亡くなった原爆乙女・佐々木禎子)、その逸話が広く知られるようになったきっかけは新聞記事であり、さらに、広島の折り鶴のシンボル生成にはその逸話を基にしたさまざまな創作物(映画や本)も関係している。つまり、ここでは新聞メディアと世論、そして芸術表現は連携的なはたらきをしてひとつのシンボルを生み出したわけだが、いっぽうで現代においてはChim↑Pomの一件を見る限り、新聞とネットと芸術表現の世論やシンボル形成の動きはバラバラである。50年を経たこの変化はいったい何なのか。いまぼくの興味はそこにある。
おそらくは「折り鶴放火事件」のあった2003年あたりが、我われの社会におけるシンボル観のターニング・ポイントなのだ(あくまで仮説的推論)。
ちなみに、2003年がメディア環境の観点ではどんな年だったのかと、インターネット10大ニュースなどを見てみると「家庭からのブロードバンドユーザーが1000万人突破」「blogがブームに、各社サービス開始」といった事象があげられている。それらを社会と人びとの意識の変化に短絡的に結ぶことは控えたいが、当時ネット上では犯人に対する誹謗中傷や悪意の投稿が加熱すると同時に、他方では焼失した鶴に代わる折り鶴をみんなで折ろうという呼びかけが見知らぬ人びとの間に善意の輪をも拡げた。


「祈り」を込めてみんなで折るという「千羽鶴」は、「千」という数的な類似も含めて戦時中の「千人針」を連想させる。アノニマスな創作行為がコンフォーミズムや挙国一致と化していくメカニズムはあたらめて興味深い。
また、「折り鶴放火事件」は大学生の野外での宴会が引き起こした事件といわれているが、それは奇しくも「若者たむろ防止装置モスキート」の設置理由にも重なることには注意しておく必要がある。つまり、平和記念公園はものものしいガラスケースの代わりに目に見えない高周波発生装置「モスキート」を防犯目的で設置するという選択も考え方としてありうることになる(むろん、ぼくは「モスキート」には反対ですが)。


   *   *   *
原爆乙女のシンボル論にはすでに優れた論考がある。『ヒバクシャ・シネマ』所収のマヤ・モリオカ・トデスキーニによる論考「死と乙女」を再読してみよう。サブカルチャーと原爆のシンボルに関する論考集もあわせてリンクしておく。

ヒバクシャ・シネマ―日本映画における広島・長崎と核のイメージ

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「はだしのゲン」がいた風景―マンガ・戦争・記憶

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追記。Chim↑Pomインスタレーション《リアル千羽鶴》と映像作品《広島の空をピカッとさせる》は6月の個展で再び見られるらしい。【ニュース】Chim↑Pomの展覧会『広島!!』再び、NADiff a/p/a/r/tで改めて全容を公開