生きとし生けるものの生(LIFE)と芸術(ART)

先月行われた「生きてる実感Vol.3〜信じる力〜」第二部・芹沢高志さんとのトークショー「生きとし生けるものの生(LIFE)と芸術(ART)」の冒頭で、プログラムにはない演目としてふたりでフルクサスのイヴェントを再演した。素人パフォーマーなのであくまでトークの導入のための余興としてだが。


まずは僕からステージに。ボトルを円環状に並べ、一本だけ水の入ったボトルを空のボトルに順番に注ぎ移していく(トマス・シュミットの演目「循環」)。


一周したところで、芹沢さんが持ってきた土瓶に水を注ぎ移す。

今度は芹沢さんが土瓶を持って脚立の上からボウルに注ぎ落とす(ジョージ・ブレヒトの演目「ドリップ・ミュージック」)。

水を媒介とするふたつのスコアを演ることを最初に提案したのは僕だったが、これを同じ水を使ってバトンを渡すように連結するというアイデアは、当日の打合せで芹沢さんから出された即興的な演出だった。これが功を奏したこともあり、公演後、参加アーティストの陶芸家の金理有くんは水を回していくさまが茶の湯のようで、器の役割が見えたと言ってくれた。器を作る人の解釈を聞いて、演ってよかったとようやく胸を撫で下ろせた。


トークは、7人のアーティストたちによるパフォーマンス終演後、彼らの生(なま=LIVE)の表現について言葉を足すことで、観客たちに次なる芸術体験へと向かう扉や鍵穴の位置を指し示すような話ができたらと考え、ビートニクフルクサス、つまりは前衛芸術と精神世界がひとつのバスに乗って自由への一歩を踏み出した20世紀後半のアメリカのことから話を始めた。
僕には「未来へ」号に乗って全国を回る遠藤一郎や、完成作品よりも創作の瞬間に降りてくるミラクルを信じるがゆえに展覧会ではなくイヴェントという形式での発表にこだわる海野貴彦らの姿が、どうもケルアックやフルクサスに重なって見えてならない気がしていたからだ。自由や解放へのアプローチの仕方が(政治的・思想的でなく)詩的であり、その表現のスタイルが(職能的・産業的でなく)DIY的であるところが、太平洋と半世紀の時を越えて双方に共通する生(LIFE, LIVE)の実感ではないかと思う。
そして、芹沢さんのフラーやケージなどをつなぐ地球的な視点の背景にアメリカの20世紀の文化史/精神史の存在を感じる僕としては、今の日本の若いアーティストの行為とその精神の存在理由を芹沢さんにぜひ聞いてみたかったというわけだ。

トークの内容はUst動画が残っているが音声が聞き取りにくいのでこれはいずれ文字に起こせるといいと思う。
また、第一部のアーティストたちのパフォーマンスのことが後回しになってしまったが、誰もが想像した以上に生々しく壮絶な表現の激突が繰り広げられたことはここに特筆しておく。その場に居合わせ、その瞬間を目撃した観客たちが持ち帰ったものは、まさに演者が提示しようとした「生きてる実感」で、確かにそれは言葉にしがたい/言葉を超越した感覚だったのだが、そのことについては映像等の編集の準備がなされた後にまた記してみたい。