すべてのものは連環する


アーツ千代田3331で開催中の「3.11映画祭」に、「引き倒し」&「引き興し」のアーティスト加藤翼のアメリカ遠征プロジェクトを追ったドキュメンタリー映画「ミタケオヤシン」(江藤孝治監督、2014年)が出展されます。その上映会終了後のトークショーで加藤翼さんと対談します。
東日本大震災の被災地でのプロジェクトを経て、太平洋の向こうへ。アメリカ社会に潜むネイティヴ史探訪など、アーティストを知らなくても文化的冒険のためのドキュメンタリー映画として誰もの胸を打つはず。昨年末から全国各地で開かれていた単館上映も終了したところなので、未見の方はお見逃しなく。

3.11映画祭「ミタケオヤシン」上映会+トークショー:加藤翼(現代美術家)×楠見清(美術編集者/評論家)
日時=2015年2月21日(土)13:00-15:30
会場=アーツ千代田3331千代田区外神田6丁目11-14)
チケット=当日1000円・前売800円
イベント詳細リンク


ちなみに「ミタケオヤシン」とはネイティヴ・アメリカンの言葉で「すべてのものは連環する」の意。美術の話としては、関係性の芸術(リレーショナル・アート)も連想させるが、加藤翼は対象にフックを打ち込み、ロープを掛け、人を集め、声を掛け合って力を合わせ、引き倒し/引き興すことで、その場の光景を転倒/倒立させ、ものの見え方や価値観を倒立させる。対象を倒壊させると同時に倒立させる──破壊と創造が表裏一体になった立体のかたちを造形的につくりだす能力には驚嘆させられる。

ところで、江藤孝治監督の前作は、人類史の起源を辿る「グレート・ジャーニー」に挑戦したことで有名な探検家の関野吉晴の活動を追ったドキュメンタリー映画「僕らのカヌーができるまで」。僕は以前から、美術という制度の外へと逸脱し前人未到の領域に乗り出していくアーティストたちを一種の「冒険家」として見ているので、江藤監督の関心にも共感するところが大きい。

加藤翼さんは今週から新作個展「リーチアウト」を開催中なのでそちらもどうぞ。
無人島プロダクション・リンク

第18回メディア芸術祭シンポジウムに出演します


社会学者の毛利嘉孝さんがモデレーターを務めるシンポジウムで、昨年夏にサンパウロで開催されたFILE 2014へ日本からの企画展の出展報告とメディア芸術の現況についてトークに参加します。
芸術とエンターテイメントの中間領域について話すべきことはたくさんありすぎるのですが、今回の話は──あくまで僕個人としてですが──昨年企画したシンポジウムで「メディア芸術」出現前夜の現代美術とオタク文化の連関に光をあてたことにつづく話だという気もしています。
そもそもメディア芸術祭が始まったのは18年前の1997年。まだインターネットや携帯電話が普及し始めたばかりの時代から、スマートフォンタブレット端末が普及した現在まで、メディア環境がめまぐるしく変化するなか、電子メディアを手法としメディアそのものを主題とした芸術表現も大きく変わり、「メディア芸術」という概念自体は当初想定された目的地を通り越してとっくに違う路線に乗り入れながら、乗客も入れ替わりながらも同じ車両で運行を続けているように見えます(この鉄道のたとえは一体なんなんだと思うかもしれませんが、東海道線高崎線とつながって湘南新宿ラインが走り、みなとみらい線東急東横線とメトロ副都心線東武東上線が一本につながって埼玉の森林公園から横浜中華街まで乗り換えなしで行けるように、アートとエンタメの相互乗り入れが「メディア芸術」ラインによって実現した、という話。首都圏ローカルな鉄道の話はわからなかったら読み飛ばしてください)。
で、何を話そうかと考えているわけですが、鉄道以外の野山から海岸までの地続きの地形のなかで道無き道を行くメディア表現者や、その上空で繰り広げられるメディアの戦争のことまで話題が拡げられたら、いや時間的に難しいかもしれないな、といままさに思案中です。


文化庁メディア芸術祭海外活動報告 ー グローバル化の中のメディア芸術」
第1部「変容するメディア芸術:芸術とエンターテイメントの〈間〉に」
ブラジル「FILE」での企画展示「Where Heaven meets Earth (天と地の出合う場所)」日時:2月14日(土)13:30-15:00会場:国立新美術館 3階講堂出演:楠見 清 「FILE2014」企画担当ディレクター/首都大学東京准教授
   
三原聡一郎 「FILE2014」出展作家
   
宇川直宏 エンターテインメント部門審査委員/現在美術家/京都造形芸術大学教授/DOMMUNE主宰モデレーター:毛利嘉孝 事業アドバイザー/東京藝術大学音楽学部音楽環境創造科准教授

詳細と事前予約=第18回文化庁メディア芸術祭公式ホームページ:開催シンポジウム一覧

美術館の閉館は誰の問題なのか?

美学校に招かれてお話しすることになりました。
企画者の青木彬さんは首都大学東京インダストリアルアートコースの卒業生でアートと社会の関係性の研究を活かして劇場に勤務しながらシアターやギャラリーの枠を越えた自由な表現を支援するプロデューサーとして活躍中。司会の木村奈緒さんは上智大学新聞学科出身でギャラリー勤務を経た後独立しジャーナリズムの観点からアートの可能性をさまざまな方法で引き出しています。彼ら20代の人たちが企画するこういった問題提起の場から、次の時代が幕を開けていくといってもいい。
昨年閉館した清里現代美術館のことなども含め、ひとりで語って答えの出せる問題ではないので、ご来場の方のご意見も拝聴できたらと思います。お気軽にご参加ください。

特別講座「美術館は静かにどこへ向かうのか」第1回「美術館の閉館は誰の問題なのか?」ゲスト講師:楠見清

ゲスト講師:楠見清
司会:木村奈緒
日時:2015年1月25日(日)19:00〜21:00
参加費:1500円(ワンドリンク付き)/3回通し券3000円(各回ワンドリンク付き)
会場:美学校 東京都千代田区神田神保町2-20 第二富士ビル3F
企画:青木彬
申込み:美学校ホームページへリンク

もうひとつの別の禅の話をしよう

来る10月5日、世田谷美術館の佐々木宏子さんの個展会場で、フリーランス編集者の赤田祐一さんとトークショーをします。

赤田さんは先月(2014年8月)末に発売された雑誌『Spectator』第31号「禅」特集を担当されたばかり。前・後編にわたる『ホール・アース・カタログ』特集につづく画期的な特集で、20世紀アメリカ文学と禅の関係から、現代人の意識と生活の中にあるべき禅について、ビギナーにも楽しく面白く、そして興味深く読ませてくれるまさにマインドフルな内容でした。

初夏に別件をお願いするためにお会いしたときに、いま禅特集を準備しているんですよと切り出しながら、僕が以前住倉良樹の筆名で翻訳した『時空のサーファー』を鞄から取り出されたのにうれしく驚かされたので、今回のトークショーの企画をお手伝いするにあたって、赤田さんをお招きすることにしました。

今回、佐々木宏子さんは登壇しませんが、著書『現代美術と禅』でよく知られている通り、古今東西の芸術のなかに禅の精神を見出し、それを自身の青いモノクローム絵画という独自の表現として貫いてきました。
おそらく、赤田さんと僕は同時期にアメリカの雑誌や音楽に触れながら対抗文化から逆輸入されたZenと出会うことで、90年代にそれぞれ『Quick Japan』と『美術手帖』という雑誌で、世界や物事の本質に触れようとしてきたのではないかと考えます。20年の時を経た今、群盲が評してきた巨象としての禅に迫りたいと思います。編集者の与太話に終始するかもしれませんが、絵画的本質の探求者として禅スピリットに溢れる佐々木宏子さんの作品に触れていただくきっかけになれば幸いです。


「青のあいだ 2011-2014 佐々木宏子」
東京展

 会期=2014年9月30日(火) -10月5日(日) 10-18時(最終日のみ16時まで、月曜休館) 入場無料
 会場=世田谷美術館 区民ギャラリーB
 主催=佐々木宏子展実行委員会
 後援=世田谷区教育委員会
トークショー「もうひとつの別の禅の話」
 日時=2014年10月5日(日)14-15時
 会場=世田谷美術館 区民ギャラリーB 
 出演=赤田祐一(編集者、ライター、元『Quick Japan』編集長)
    楠見清(美術編集者/評論家、元『美術手帖』編集長)
 入場無料、お席に限りがありますので早めにご来場ください

東京展終了後2014年10月15─19日=京都文化博物館に巡回
展覧会詳細=佐々木宏子財団公式ホームページ
アクセス=世田谷美術館ホームページ交通案内
世田谷美術館企画展示室では「松本瑠樹コレクション ユートピアを求めて ポスターに見るロシア・アヴァンギャルドとソヴィエト・モダニズム」を開催中です。あわせてご観覧ください(有料)

「メディア芸術」日本代表、ブラジル遠征――FILE SP 2014リポート


ブラジル、サンパウロで毎年開催される国際メディアアート・フェスティバル「FILE」に、文化庁海外メディア芸術祭等参加事業の一環として日本人アーティストを派遣出展することになり、その企画展のディレクションを担当しました。

日本の企画展示「Where Heaven meets Earth(天と地の出会う場所)」は、8組のアーティストによる4章立ての構成で、上昇と下降、物質と情報、現実性と抽象性、回転と浮遊といった対比的なアングルから、現代日本のメディア芸術表現に見られる特徴を明らかにしていこうというもの。
アニメ、音楽、メディアアート、現代美術など異なる領域の表現者を一堂に会し、さらに古くは浮世絵に見られる斬新な視覚表現との関連も暗示させるものとしました。
さらに詳しいコンセプトについては、プレスリリースに寄せたテキストをご覧ください。
文化庁プレスリリース(日本語)、フライヤー(ポルトガル語)ダウンロード


世界と異界をつなぐ――企画展〈Where Heaven Meets Earth〉
現地サンパウロでの展覧会の様子を写真で紹介します。

会場のSESIアート・ギャラリーの入るFIESP文化センター。高く大きな外壁は全面LEDで、夜はイルミネートする。



1階はゲーム部門、2階はメディアアート部門と展示場の2フロアすべてを使っています。



2階エントランスを入るとすぐ真正面から日本の展示から始まります。日本の企画展がとくに力の入ったものとして高く評価された結果与えられた会場内で最高の場所です。



企画展「Where Heaven meets Earth(天と地の出会う場所)」についてのステートメント(拙稿)。すべてのテキストは基本的にポルトガル語と英語の二カ国語で表記。


Part 1: From Ukiyoe to Anime (浮世絵からアニメへ:反転と降雨)


吉浦康裕「サカサマのパテマ」のモニタの背景には葛飾北斎《冨嶽三十六景 甲州三坂水面》、石田祐康「rain town」の背景には歌川広重《大はしあたけの夕立》の背景スクリーンを壁に敷き詰めて、天地が反転する視覚表現と雨の垂直線で覆われる画面の新旧対比を表現した。


Part 2: Physical World (上昇と下降:物理世界)
左は三原聡一郎「  を超えるための余白」(2013)、右は和田永「時折織成 -落下する記録-」(2013)。
三原の作品は、現地で調達した水や溶剤の性質の影響で、泡の柱を直立させるのに最後の最後まで苦労されたが、結果的にできあがった様態が完成形であるというコンセプトなので、今回は奇しくも屈曲し混沌とした世界を反映したといえよう。
和田永のオープンリール・デッキを載せた4本の柱状の作品は、会場の中央に置かれることで本展の中で最もシンボリックな作品となった。テープが巻き上がるときに早回しで奏でられる「美しく青きドナウ」にブラジルの観客もいっせいに驚嘆の声をあげてくれた。


Part 3: The World of Images and Information (上昇と下降:情報イメージ世界)

佐藤雅晴「Escalator Girl」(2010)と「Nine Holes」シリーズ(2013)から上下運動を表すループ・アニメーション4点を選出。いずれも日常の中に潜む奇妙な動きを繰り返す。リアリスティックな映像だがすべて手作業で描写されたCGであるという、かつてのスーパーリアリスム絵画の問題も継承している。



土屋貴哉の「UpHill」(2014)、「Field Running」(2012)と新作を含む4点からなるインスタレーション。スクロール・バーやサッカー場の芝、物差しがランダムな上下運動を続けるだけのプログラム作品は、具体的なイメージであるにもかかわらず実体のないデータにすぎないというアイロニーの上に立っている。モニタ・ディスプレイを支えるために置かれた自然石や壁に掛けられたメジャー(巻尺)など、ファウンド・オブジェとの組み合わせによる展示は現代美術的な文脈を意識させるが、同時にむしろ彫刻的な存在感も主張している。
「Field Running」ほか土屋のプログラミング作品は、このリンク先からお手元のコンピュータ・ディスプレイで表示できる。ぜひ実際に画面上で動かしてみてほしい。


Part 4: Rounding and Floating (回転と浮遊)
匿名的な非実在バンド、さよならポニーテールのミュージック・ヴィデオ3点から、その独特の世界観と浮遊感覚を紹介する展示。左から「空も飛べるはず」(監督=吉田ユニ監督、2012)、「ヘイ!!にゃん♡」(監督=古賀学、2013)、「無気力スイッチ」(監督=青山裕企、2011)。歌詞はすべて今回作成したポルトガル語字幕で表示。日本の少女の心の世界をはじめて見聴きする観客は、むしろ真剣な表情。




川村真司+井口皓太によるフェナキストスコープ盤の原理を使ったSOUR「Life is Music」ミュージック・ヴィデオ。アニメーションの原初的な原理を応用し、聴覚の記録メディアである音盤の運動を視覚メディアに置換応用することで、メディア表現を技術史的に貫いた象徴的な作品。


展覧会の様子は日本でのテレビのニュースでも報道された。三原聡一郎の作品が解説とともに紹介されている。
NHKニュース「ブラジル メディア芸術の展示会」2014年8月26日 13時28分



ポスト・セルフィー――視聴覚交換マシンから21年目のヘッドギア型作品
本企画展の他にも、各国のメディアアート、アニメ、ゲーム等(日本人作家も含む)の展示が行われたが、なかでも興味深かったのは「FILE Metro: Performance Post-Selfie」と題したパフォーマンス部門で、スマートフォンによってセルフィー(自撮り)が当たり前になった現在の新しい身体メディア表現をテーマにしたもの。テーマとして興味深いし、人選も面白いので以下紹介しよう。



ザ・コンスティテュート(セバスチャン・ピアッツァ&クリスチャン・ツォエルナー、ドイツ)による《アイセクト》。ヘッドマウントディスプレイを装着した体験者は、脱着可能な左右両眼のカメラを自由に動かしながら人間の能力ではとらえられない視覚域を得ることができる。



エリック・シウ(香港)の《タッチー》は、ヘッドギア型のカメラ。装着した作者自身はそのままでは盲目状態だが、他者と触れ合うことによってスイッチが入り開眼する。シャッターを押して、他者のポートレートを撮影し後頭部に埋め込まれた液晶モニタに映しだし、プリントアウトもする。




野上勝己(日本)の《山田太郎プロジェクト》(YAMADA TARO PROJECT TOKYO×BERLIN 動画)は、体験者はiPadで撮影した他人の顔をお面のようにつけて町を歩き、出会った人の顔を手に入れたり入れ替わったりしていく。顔は本人を同定するアイコンだが、SNSでは別人の顔や他の写真やマンガでも代用できることをリアル世界で実験してみるもの。

ここでは誰もがセルフィーをする時代の自撮り作品とでもいうべきパフォーマンス型の作品が集められ、いずれも自己と他者をテーマにしながらそれぞれ三者三様のアプローチを見せているのが興味深い。ブラジル側の企画者の意図がじゅうぶんに伝わってくるよい企画だ。
ちなみに、ヘッドマウントディスプレイによる体感型のメディアアートについては、その先駆的作品として八谷和彦《視聴覚交換マシン》(1993)について、ここでは僕がぜひとも触れておきたい。それから21年後=2014年のセルフィー以後の作品たちはある意味では《視聴覚交換マシン》が予見的に提示していたいくつかの問題に対して21世紀のテクノロジーで解答しているようにも思えたのだ。
たとえば、《アイセクト》は人間の視野認識を逸脱することで他の生物に近づいてみたり知覚認識を破壊したりすることで純粋な個である自己とそれを取り囲む世界との関係性を再構築する(認知科学的解答)。
《タッチー》はカメラと同化することで、他者とのコミュニケーションを通じてしか世界とつながれない自分を演じることで、世界のなかの自分の居場所をつくりだす(コミュニケーション的解答)。
そして、《山田太郎プロジェクト》はネット上のアイコンのように安易で薄っぺらな顔写真を、交換可能な匿名的な表象として解き放ち、遊戯の題材にしてしまう(ゲーム的解答)、といった具合に。
     *
思えば1980年代後半から90年代初めには、VR技術の紹介とともに全身を覆う着衣(スーツ)型の作品が実験的につくられた(その先駆的作品は1983年の原田大三郎《メディアスーツ》であり、さらに遡れば予言的作品として1956年の田中敦子《電気服》がある)が、最終的にこういった試みはウエラブル・コンピュータ、ゴーグル型のディヴァイスの普及によって、作品としての形(=形式やサブスタンス)をかぎりなく失い、衣服や眼鏡のように、皮膚や知覚器官に密着あるいは同化していく。だが、その形でない部分(=コンセプトやエッセンス)は以前からある遊具や玩具、スポーツやファッションといった領域のなかに浸透していくように思われる。
あらためて振り返ってみれば、21年前、レントゲン藝術研究所のワン・デイ・エキシビションで八谷の《視聴覚交換マシン》を初めて装着し、その場で偶然ペアになった相手と声をかわしながら互いを探し、出会えて手をつなげたときの喜びは、インターネット上で起こりうる偶然でありながら必然とも思える人と人の出会いの喜びにも似ている。
八谷の作品はこれまで「体感型」(たとえば《視聴覚交換マシン》から《エアボード》を経て、現在のメーヴェ型の飛行機につながる体育会系作品)と「コミュニケーション型」(《メガ日記》や《ポスト・ペット》等ネットやゲームに類する作品)に分けられて来たが、その二つの触手はやがて結ばれてひとつに輪になるのではないか。
「ポスト・セルフィー(脱自撮り)」とは、メディア技術によって開発されていく新しい〈鏡〉のデザインなのかもしれないし、我々はメディア化された自我を映すことのできる新しい〈姿見〉を必要としているのだともいえる。


「FILE SP 2014」は2014年8月25日―10月5日までブラジル、サンパウロ、SESIアート・ギャラリーで開催。
FILE公式ホームページ

22年後の未来は今──第17回文化庁メディア芸術祭シンポジウムのモデレーターを務めます

文化庁メディア芸術祭のシンポジウムのモデレーターを務めることになりました。メディア芸術祭事務局からのお声掛けは今回初めてなので、いくぶん門外漢かもしれませんが、以前から出版編集を通じてアート・シーンとその周辺領域の交流と融合をはかってきた者のひとりとして、この20年間の日本の現代美術とメディア芸術の検証にのぞみたいと思います。
そもそもメディア芸術祭は1997年に「デジタルアート(インタラクティヴ)部門」、「デジタルアート(ノンインタラクティヴ)部門」、「アニメーション部門」、「マンガ部門」の4つのカテゴリーで始まり、その後変遷を経て、現在は「アート部門」、「エンタテイメント部門」、「アニメーション部門」、「マンガ部門」となっています。
ここで注目したいのは、当初「デジタルアート」に特化されていた部門が、現在はより広い意味での「アート」として、視覚美術やサウンドアートや身体的な表現も含むカテゴリーに拡張されていることです。そして、そのことについていまの視点で振り返ると、2010年代現在のメディア芸術祭はフレームをただ拡げたというより、むしろ1990年代の現代美術シーンとつながってみえる。そのことはNTTインターコミュニケーションセンター[ICC](1997年開館)やその機関誌・季刊『InterCommunication』(1992-2008)や、テクノロジー・アートのアニュアル展「キヤノンアートラボ」(1991-2001)といったメディア・アート関連の流れを遡っていくとより鮮明に見えてくると思います。
また、90年代には当時の若手美術家たちが日本ではこれまでとても美術の主題や題材にはなりえなかったサブカルチャーやエンタテイメントに対して急速に接近を始めました。その後2000年代に「クール・ジャパン」と呼称される日本の現代文化の原型ともいえる表現のいくつかが、J-POPを生んだ音楽シーンだけでなく現代美術界からも立ち上っていたことは、いま思い出しておく必要があると思います。
このような観点から、今回、1990年代初頭にアートの未来について語り合った3人のアーティストを代表選手として招集して、「メディア芸術祭」という──現代美術をホーム・グラウンドとする我々からすると──”ちょっとアウェイな”ピッチの上でボールを転がし、議論を展開してみたいと思いつきました。
招集メンバーの御三方はこの22年の歳月の間にそれぞれ表現活動を展開し、かつての若手美術家の顔合わせは、いまやアート界のドリーム・チームとよぶにふさわしい豪華な顔ぶれとなりました。ただし、この22年ぶりの再会はノスタルジックなリヴィジテッド(再訪)には終わりません。これを契機に、より多くのみなさんに、アートの面白さ(!)やものすごさ(!!)やその存在理由(!?)についてぼくらがどう考えているかを知っていただき、今後また新たなフェーズでの現代美術とメディア芸術、そしてメディア芸術祭の各部門の交流と融合が進展していくことを企図しています。

以下、開催の概要を記しておきます。
   *   *   *

第17回文化庁メディア芸術祭受賞作品展シンポジウム「想像力の共有地〈コモンズ〉
アートから大衆娯楽、産業広告からインディペンデント作品まで、メディア芸術における広範な表現形態を接続し、「同時代の文化形成」を考えるシンポジウム
第2部:ジャパン・コンテンツとしてのコンテンポラリー・アート──ジャパニーズ・ネオ・ポップ・リヴィジテッド
2014年2月16日(日) 13:00-15:00 国立新美術館 3階 講堂

出演:
  中原浩大現代美術家京都市立芸術大学教授]
  ヤノベケンジ現代美術家京都造形芸術大学教授]
  村上隆現代美術家、有限会社カイカイキキ代表]
モデレーター:
  楠見清[美術編集者/評論家、首都大学東京准教授]

◎日本のおたくコンテンツやサブ・カルチャーが現代日本文化として海外から注目を集め、クール・ジャパン戦略の主軸になることなどまだ誰も想像できなかった1990年代初頭、当時20代だった現代美術家たちが、いちはやく日本のマンガ、アニメ、エンターテイメントに注目し、日本発の新しいポップ・アートの創造を始めていた。その動向は「アノーマリー」展(1992年9月=レントゲン藝術研究所、椹木野衣キュレーション)によって顕在化され、さらに「TOKYO POP」展(1996年、平塚市美術館)、「ヒニクなファンタジー」展(1996年、宮城県美術館)などに結実していく。さらに、彫刻や絵画を表現手段としていたはずの彼らは、メディア・アートという呼称が普及する前から、観客によるインタラクションや五官による体感型の実験芸術の制作にも着手していた。
◎マンガ、アニメ、Jポップ、そしてメディア・アートといった現在のメディア芸術につながる動向の出現前夜に、なぜ日本の現代美術家たちがそれらを“発見”することができたのか? ここには19世紀のジャポニスム岡倉天心の時代から受け継がれてきた西洋美術と日本美術との交流と相互受容、そして、格闘と再構築の歴史がある。
◎アートの地平からこそ見渡せるその風景をいま、より広域な文化の地形図として共有するために、このシンポジウムでは、『美術手帖』1992年3月号特集「ポップ/ネオ・ポップ」に掲載された座談会記事「ポスト・ホビー・アート・ジャパン」の出席者である3人の現代美術家を壇上に召還する。1990年代初頭、まだ「萌え」という感覚もなかった時代に美少女フィギュアをレディメイド作品として発表した中原浩大、原発事故がまだ遠い国の出来事だった頃から核の恐怖を主題にサバイバルのための制作をしていたヤノベケンジ、そして、「ジャパニメーション」が騒がれる前から日本美術とアニメの共通点を強く主張してきた村上隆。その後、交差することなく三人三様の活動を展開してきた彼らが、この日22年ぶりに一堂に会し、途切れたままの対話を再開する。[楠見清]


第17回文化庁メディア芸術祭ホームページ(トップ)

第17回文化庁メディア芸術祭シンポジウム一覧詳細

『ロックの美術館』への招待──自著刊行によせて


「ロックは既存の価値観からはみ出しこぼれ落ちた雑多なものごとを拾い上げ、地球上のさまざまな地域の音楽のエッセンスをとり入れ、伝統も前衛も貪欲に吸収し、すべてを分け隔てなく包み込むことで、愛や平和や自由といったかたちのない抽象的な概念を。体と心で感じる文化としてつくりあげてきました」(中略)「ロックの美術館は、ロックを──ただのミュージックではなく──視覚表現も含めたひとつの時代精神史としてとらえることで、ロックの名の下に従来の美術史とデザイン史を融合し再編する試みとして夢想されました。それは、あなたの想像力のなかで開館します。」(「エントランスホール|はじめに|ロックの美術館へようこそ」より)
    *  *  *
月刊『クロスビート』で2007年より連載していたコラム「アートワーカホリックアノニマス」を中心に、音楽周辺のデザイン、アートワーク、ブック、パフォーマンス、展覧会などに関する原稿を一冊の単行本にまとめました。音楽のアートワーク(レコードやCDのカヴァー・ジャケット等)に関する雑学的な知識は長年の趣味の蓄積でもありますが、ここでは音楽とアートとデザインを接続することによって20世紀から現在に至るポップ・カルチャーの様相を浮かび上がらせようという試みです。
本書のテーマを一言で言うなら「ポップとは何か?」ということになりますが、もう二言、三言足して言うなら、大衆向けの産業音楽であるポップ・ミュージックが、ディジタル配信によって音盤というフィジカルなメディアを喪失していこうとしている現在、ポップ(・アート)もまた情報化=脱物質化の過程にある、というのが私なりの新しい持論です。
本をつくるにあたっては、すべての論考の順序を再構成し、1〜7までの章立てを第1展示室から第7展示室に見立てることで一種の「空想ミュージアム」を案内する仕掛けになっています。ここではその全体像を紹介するために目次のテキストデータを掲載しておきます。

    *  *  *

ロックの美術館 目次
エントランス・ホール|はじめに
 ロックの美術館へようこそ
第1展示室
 破壊と創造 ロック・アイコノクラズム
 ギター・スマッシュの起源──なぜギタリストはそれを壊すのか
 破壊せよ、とメッツガーは言った
 ピアノ・バーニング──燃えるピアノの奏でる音楽
 耐火服のピアニスト、山下洋輔「ピアノ炎上」再演
 今われわれはなにを壊すべきか──コンピュータ破壊からエア・ギター
 萌えるギター少女の原点──江口寿史ポップ試論
 音のミューズは絵画に降臨する

第2展示室
 円盤の包み紙
 パッケージングとラベリング
 いつかぼくたちは懐かしむだろう。音楽が新鮮な野菜みたいに店頭に並んで売られていた時代を。
 右傾斜角45 度↗対角線の思想と美学
 文字化けと暗号化──タイポグラフィーのゴーストとパンクス
 「カヴァー・アートなし」という究極のカヴァー・アート
 バック・トゥ・ザ・ネイチャー──彼らが裸になる理由
 ガーシュウィンブライアン・ウィルソンがディズニーの魔法にかけられて
 3つの感嘆符による音と写真と映像のトライアングル
 〝空飛ぶ蓮〟の柄(パターン)と格子(グリッド)でできた世界
 海を越えるつもりじゃなかった
 ビースティ・ボーイズ最後の聖戦
 アンダーグラウンドの喧噪からアンダーウォーターの静寂へ

第3展示室
 脱物質化する音楽
 ディジタルとフィジカル
 明日われわれはフィジカルなき音楽のどこをどうやって愛でればいいのだろう
 ザ・ビートルズは“箱”の外で今も生きている
 なぜクラフトワークはアルバム・アートワークをリニューアルしたのか
 超田園(ハイパー・パストラル)──羊のジャケットをめぐる冒険
 ハード・カヴァーのリミテッド・エディション──なぜCDが本のかたちになるのか
 ポール・マッカートニーのすべてを〝情報の雲〟の上に
 ニコンFを下げてそこに立ってた彼女──写真家リンダ・マッカートニー
 ペーパーバックとウォークマン──ウエラブルなロックの情報端末の原点
 アナログ盤のレーベル・デザイン標本──アルノのマルチプル・ブック
 ジャケットを脱いだ音の肖像──松蔭浩之のレコード写真
 中古盤のジャケを再利用して新譜のジャケをつくるDIY的ロック再生計画
 アマゾンの箱の中のメタリカの棺
 ファウンテインズ・オブ・ウェインの予言的なジャケを読み解く
 消えゆくスーパーマーケットに捧げる店内放送のレクイエム

第4展示室
 メイド・イン・20 世紀
 ポップ・レヴォリューション
 ミュージック・アートワーク・ヒストリー
 ①[1960年代]〈FREE〉と〈LOVE〉でアメリカの音楽と絵画の流れをつなぐ
 ②[1970年代]〝歌うポップ・アート〟とテクノ・ポップ
 ③[1980年代]ニュー・ウェイヴという名の新しい文化生活革命
 ④[1990年代]ビットマップのブギウギ
 ピーター・ブレイクは『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』によって彼らに何を与え、何を得たのか
 15秒間だけ、すべての消費者はオーディエンスになる
 もうひとりの「ドクター・ロバート」とロックの守護聖人たち
 「ディス・イズ・トゥモロウ」から「ディス・ワズ・トゥモロウ」へ
 バック・トゥ・ポップ──ロリポップの渦巻きをたどる
 キング・オブ・ポップの死
 バナナは誰のものか?──ヴェルヴェッツvs.ウォーホル裁判
 シド・ヴィシャスの蝋人形になりすました悪たれ芸術家
 マドンナのブランド戦略は最高のデザイナーによる最強の布陣で
 ポップはそれ自身を喰らうだろう

第5展示室
 ロックの公共性 イメージとメッセージ
 戦う四文字言葉──RAGE(激怒)、AIDS(エイズ)、RIOT(暴動)
 ブルースでも、ソウルでも、ロックでもなく、あるのはアメリカ音楽だ
 ヒーローなき格差社会を生きるガテン系フリーターのアンセム
 爆発する音楽──アトムの時代のサウンド
 手のひらから小さなキノコ雲が立ち上がる
 イメージの洪水警報──フォトモンタージュとロック・プロパガンダ
 反原発デモグラフィックス、いま音楽とアートにできること
 原発事故を問うアーティストたち
 3・11 以後のふたつのバッド・インスタレーション

第6展示室
 身体と媒体 ボディ/エレクトリック
 ビートルズ全213 曲で描くウォール・ペインティング・オブ・サウンド──藤本由紀夫のインスタレーション
 氷のレコードが奏でる音楽──八木良太の作品
 手のひらに音楽を、光の楽器を演奏(プレイ)する──岩井俊雄TENORI-ON
 ジョン・ケージ「ヴァリエーションズVII」東京ヴァージョン
 ぼくらをのせてどこへ行く、進め!「未来へ」号──遠藤一郎の冒険
 踊る身体(ボディ)が映る媒体(メディア)になる──ラップトップ世代のダンサー/コレオグラファー梅田宏明

第7展示室
 展覧から共有へ ミュージックとミュージアム
 ベックと祖父アル・ハンセンをつなぐポップとハプニングの血脈
 ムーン・フェイスに映る誰かの面影──ジュリアン・オピー展
 ウォーホルの全ジャケ仕事がカタログ・レゾネになったわけ
 “ただのロックンロール”ではなくなったロック、でもそれが好き
 音速の若者のすべて──ソニック・ユース全記録展
 眠れるお米少年たちの見る夢は?──ライスボーイ・スリープスのアートワーク
 1979 年とは何だったのか?──30 年後の未来から見た展覧会
 ミュージアムは動く──ジョン・レノンミュージアム閉館と「スウィンギン・ロンドン50’s-60’s」展

ミュージアム・ショップ|あとがきにかえて
 「ご自由にお手に取ってご覧ください」

索引・出典一覧

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楠見清著『ロックの美術館』、シンコーミュージック・エンタテイメント刊、本体2400円、アートディレクション=永原康史、カヴァーイラストレーション=江口寿史

KUSUMI, Kiyoshi, Rock-no-Bijutsukan (The Museum of Rock and Pop Art), Shinko-Music Entertainment, Tokyo, Japan, 2013