22年後の未来は今──第17回文化庁メディア芸術祭シンポジウムのモデレーターを務めます

文化庁メディア芸術祭のシンポジウムのモデレーターを務めることになりました。メディア芸術祭事務局からのお声掛けは今回初めてなので、いくぶん門外漢かもしれませんが、以前から出版編集を通じてアート・シーンとその周辺領域の交流と融合をはかってきた者のひとりとして、この20年間の日本の現代美術とメディア芸術の検証にのぞみたいと思います。
そもそもメディア芸術祭は1997年に「デジタルアート(インタラクティヴ)部門」、「デジタルアート(ノンインタラクティヴ)部門」、「アニメーション部門」、「マンガ部門」の4つのカテゴリーで始まり、その後変遷を経て、現在は「アート部門」、「エンタテイメント部門」、「アニメーション部門」、「マンガ部門」となっています。
ここで注目したいのは、当初「デジタルアート」に特化されていた部門が、現在はより広い意味での「アート」として、視覚美術やサウンドアートや身体的な表現も含むカテゴリーに拡張されていることです。そして、そのことについていまの視点で振り返ると、2010年代現在のメディア芸術祭はフレームをただ拡げたというより、むしろ1990年代の現代美術シーンとつながってみえる。そのことはNTTインターコミュニケーションセンター[ICC](1997年開館)やその機関誌・季刊『InterCommunication』(1992-2008)や、テクノロジー・アートのアニュアル展「キヤノンアートラボ」(1991-2001)といったメディア・アート関連の流れを遡っていくとより鮮明に見えてくると思います。
また、90年代には当時の若手美術家たちが日本ではこれまでとても美術の主題や題材にはなりえなかったサブカルチャーやエンタテイメントに対して急速に接近を始めました。その後2000年代に「クール・ジャパン」と呼称される日本の現代文化の原型ともいえる表現のいくつかが、J-POPを生んだ音楽シーンだけでなく現代美術界からも立ち上っていたことは、いま思い出しておく必要があると思います。
このような観点から、今回、1990年代初頭にアートの未来について語り合った3人のアーティストを代表選手として招集して、「メディア芸術祭」という──現代美術をホーム・グラウンドとする我々からすると──”ちょっとアウェイな”ピッチの上でボールを転がし、議論を展開してみたいと思いつきました。
招集メンバーの御三方はこの22年の歳月の間にそれぞれ表現活動を展開し、かつての若手美術家の顔合わせは、いまやアート界のドリーム・チームとよぶにふさわしい豪華な顔ぶれとなりました。ただし、この22年ぶりの再会はノスタルジックなリヴィジテッド(再訪)には終わりません。これを契機に、より多くのみなさんに、アートの面白さ(!)やものすごさ(!!)やその存在理由(!?)についてぼくらがどう考えているかを知っていただき、今後また新たなフェーズでの現代美術とメディア芸術、そしてメディア芸術祭の各部門の交流と融合が進展していくことを企図しています。

以下、開催の概要を記しておきます。
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第17回文化庁メディア芸術祭受賞作品展シンポジウム「想像力の共有地〈コモンズ〉
アートから大衆娯楽、産業広告からインディペンデント作品まで、メディア芸術における広範な表現形態を接続し、「同時代の文化形成」を考えるシンポジウム
第2部:ジャパン・コンテンツとしてのコンテンポラリー・アート──ジャパニーズ・ネオ・ポップ・リヴィジテッド
2014年2月16日(日) 13:00-15:00 国立新美術館 3階 講堂

出演:
  中原浩大現代美術家京都市立芸術大学教授]
  ヤノベケンジ現代美術家京都造形芸術大学教授]
  村上隆現代美術家、有限会社カイカイキキ代表]
モデレーター:
  楠見清[美術編集者/評論家、首都大学東京准教授]

◎日本のおたくコンテンツやサブ・カルチャーが現代日本文化として海外から注目を集め、クール・ジャパン戦略の主軸になることなどまだ誰も想像できなかった1990年代初頭、当時20代だった現代美術家たちが、いちはやく日本のマンガ、アニメ、エンターテイメントに注目し、日本発の新しいポップ・アートの創造を始めていた。その動向は「アノーマリー」展(1992年9月=レントゲン藝術研究所、椹木野衣キュレーション)によって顕在化され、さらに「TOKYO POP」展(1996年、平塚市美術館)、「ヒニクなファンタジー」展(1996年、宮城県美術館)などに結実していく。さらに、彫刻や絵画を表現手段としていたはずの彼らは、メディア・アートという呼称が普及する前から、観客によるインタラクションや五官による体感型の実験芸術の制作にも着手していた。
◎マンガ、アニメ、Jポップ、そしてメディア・アートといった現在のメディア芸術につながる動向の出現前夜に、なぜ日本の現代美術家たちがそれらを“発見”することができたのか? ここには19世紀のジャポニスム岡倉天心の時代から受け継がれてきた西洋美術と日本美術との交流と相互受容、そして、格闘と再構築の歴史がある。
◎アートの地平からこそ見渡せるその風景をいま、より広域な文化の地形図として共有するために、このシンポジウムでは、『美術手帖』1992年3月号特集「ポップ/ネオ・ポップ」に掲載された座談会記事「ポスト・ホビー・アート・ジャパン」の出席者である3人の現代美術家を壇上に召還する。1990年代初頭、まだ「萌え」という感覚もなかった時代に美少女フィギュアをレディメイド作品として発表した中原浩大、原発事故がまだ遠い国の出来事だった頃から核の恐怖を主題にサバイバルのための制作をしていたヤノベケンジ、そして、「ジャパニメーション」が騒がれる前から日本美術とアニメの共通点を強く主張してきた村上隆。その後、交差することなく三人三様の活動を展開してきた彼らが、この日22年ぶりに一堂に会し、途切れたままの対話を再開する。[楠見清]


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