7つの太陽がぼくらを照らす日──「生きてる実感Vol.3」によせて


生きてる実感、なんてちょっといきなりすぎじゃない。オマエにはそれがあるかってわけでしょ?
ああ。オレもそう思ったけど、あらためて訊かれてみると答えに窮する分だけ核心突かれた気がする。
えー、そうかな。質問は唐突だけど答えは決まってるじゃない。わたしは生きてる実感あるけどな。いつも、おいしいもの食べたり、きれいな絵を見たり、音楽で泣いたり、友だちと笑ったり、あなたと会ったり……
キモチイイことしたり、キモチイイものくったり……
バカ。気持ちいいだけじゃないよ。気持ち悪くなるときも生きてる実感ってあると思うな。もう死にたいとか、まだ死にたくないとか。そういう逃げ場がないときこそ生きてる証しだと思うのよ。
まるで昔は目の前真っ暗だったみたいな言い方だね。
ええ、そうよ。真っ暗闇の中で見つけた唯一の光があなただったのよ。


 彼女が妙に反応している「生きてる実感」という言葉は、アーティストの海野貴彦と遠藤一郎によるパフォーマンス・イベントのタイトルだ。第1回は2009年の10月に埼玉県・戸田公園の巨大倉庫で(副題「旅の終点に/旅は終わらない」)、第2回は2010年3月に大分県別府タワーで(副題「命(たま)持ってんだろ」)行われたという。それはタイトル通り、個性溢れる2人のアーティストの出会いと魂の激突だったが、3年目の今回はメンバーが総勢7人に増え、なにやらジャンルを越えた若手作家のうねりになろうとしている。


誰もが同じように生まれてきたはずなのに、生きるのが上手いやつと下手なやつがいるんだ。死にたいとか死にたくないとかいうのはどっちかといえば下手なほうだろ。
下手でもいいじゃない。ただの世渡り上手よりは一所懸命生きてるほうが実感あるし、そのほうが案外何かが見つかるんじゃないかという気もするわ。
目にフタをして見ないことにしてるほうが生きやすいという現実もあるよ。
現実と真実は違うわ。現実だけを見てる人には、真実は見えないものよ。
それはあまり現実的じゃない話だね。
非現実だって超現実だっていいのよ。夢を現実に、見えないものを見えるようにリアライズするのがアーティストの仕事じゃないの。


 ぼくらは自分がいつ生まれたのかは知っているけれど、自分が何のために生まれてきたのかを答えられる人は少ない。もしかしたらそれを知りたがっている人が少ないといったほうが正確かもしれない。でも、どちらにしても何か大切なことを知らないまま、ぼくらはみんな生きている。いや、ここは生かされているというべきか。
 だとしたら、自分の生を取り戻すためには、まずは何かを否定するのをやめることだ。何かを否定するたびに人は世界の一部を失っていく。世界はもうぼろぼろの破れ傘のように穴だらけだ。修復するには、この世のすべてを肯定するしかない。
 気持ちいいものも、気持ち悪いものも。
 美しいものも、美しくないものも。
 現実も、虚構も。創造も、破壊も。 
 コノヨノモノも、アノヨノモノも。
 あらゆるものに対して分け隔てなくYesと言えたら──ぼくの予感はきみの実感に変わるだろうか。


破れ傘の穴はYesの御札で本当にふさがるのかしら?
いや。穴はふさがらない。すべてを肯定する太陽が昇るんだよ。そう、眩しすぎて何も見えない。でも、すべてが感じられる。ただ、その実感は言葉ではとても言い表せない。
あ、それならわかるわ。そういうときみんな、オギャーッって言うのよ。


(2011年1月31日筆、「生きてる実感Vol.3」フライヤー掲載のテキスト)