伊達直人とは誰か──アノニマス作品としての「タイガーマスク運動」

donburaco2011-01-16


メディアがあまりとり上げない観点で、僕なりに以下4つの符合から考察してみる。

1.贈り物のカタチ──ピラミッド型の符合
児童相談所児童養護施設に「伊達直人」名義でランドセルが贈られたというニュースに連鎖するように全国各地で同様の善意の寄贈が相次いでいる。今日のニュースによれば12日までで全国47都道府県すべてに計100件を越えるランドセルなどの寄贈があったという。僕が当初気になっていたのは初期の伊達直人たちに共通した贈り物の並べ方だ。当初の例では、朝見てみると玄関前にランドセルの包みが積み上げられていたという。それは明らかに「デザイン」されている(写真1枚目は前橋、2枚目は小田原の報道写真より)。


前橋のものは時節柄クリスマス・プレゼントであり、小田原のものはお年玉と明記されている。だが、なぜどちらもランドセルの入った箱がピラミッド型に積み上げられているのか。というより、”伊達直人たち”にとって匿名で贈る善意の品物はこのような形で置かれるべきだった──そこでイメージされているものはおそらくこれなのではないか。


そう、米俵。朝起きてみるとおじいさんとおばあさんの家の前には山のようにたくさんの米俵がありました、という昔話のハッピーエンドのように、贈り主の判明しない突然の贈り物はまさに”山のように”積み上げられているべきだったのだろう。みんなを驚かせ、喜ばせたいというキモチが自然にカタチになったといってもいい。ここには何かほのぼのとしたものと同時にキツネにつままれたような愉快痛快と奇々怪々がある。


2.子どもたちの守護聖人として──年中行事との符合
昨年末のクリスマスに前橋の伊達直人のニュースを見た際に、これは「あしながおじさん基金」と似た何かになるかもと思っていたが、マスコミではこのところずっと「タイガーマスク運動」なる言葉が連呼されている。1月5日の小田原の伊達直人の手紙に「タイガーマスク運動が続くとよいですね」とあったそうなので、今回の一連の「運動」は2人目の小田原の伊達直人が”運動化”したのだといえる。


もちろん、この一連の「運動」の鍵は、やはり「伊達直人タイガーマスクの本当の名前)」という架空の物語の登場人物の名前を借りて行われることにある(その意味では最初の前橋の伊達直人のセンスが秀逸だった)。昭和40年代のマンガ/アニメのなかのヒーローが正体を隠しながら児童養護施設の子どもたちを支えていた(そしてタイガーマスク自身も子どもたちの応援に支えられていたのだが)という美談を現実世界で演じる──フィクションが具現化されることによって、施設の新一年生にランドセルを贈るという小さな慈善行為に物語的な背景がたちあがる。「小田原の伊達直人」は聖夜にランドセルを置いていったが、子どもたちへの匿名のプレゼントはそもそも聖ニコラウスの守護聖人伝説を現実化したサンタクロースの贈り物にも共通している。また前橋の伊達直人は「お年玉です」というメッセージを添えていたが、児童施設にランドセルを贈るという「運動」は今後いったん終息したとしても来年のクリスマスやお正月の時期に再び伊達直人の名で復活するかもしれない。共同募金の赤い羽根が十月一日を告げる風物詩のひとつであるのと同様に、運動は年中行事としてのほうが定着しやすい。


3.誰もが伊達直人になれる──ラジオネームとの符合
伊達直人」を名乗る人物たちはアノニマス(匿名的)な存在だ。寄付をする人間が匿名でそれを行うことはよくあることだし、そこには心情的な理由がある。売名行為として誤解されることは善意の主が恐れることだからだ。
だが、今回はただ匿名で贈るのではなく(おそらくは子どもの頃見ていた)アニメの主人公の名を選んだことがニュース性を高め、共感を呼んだ。「伊達直人」は善意の記号として中高年を中心に即座に理解され、共感の輪を広げていった。
──いくばくかの蓄えと志があれば誰でも伊達直人タイガーマスクになれる。
──子どもの頃、憧れたあのヒーローになれる。
この事実には確かに胸を高鳴らせるものがある。


興味深いのはアノニマスな記号である「伊達直人」が、寄贈者それぞれによってアレンジを加えられている例だ。
山形では寄贈された野菜や米に添えられた手紙に「田舎伊達直人」と記され、長崎では「伊達直人」の署名の横に「ヒバクシャ」とルビが振られ、佐世保では「中学生の伊達直人」までもが現れた。いずれの伊達直人伊達直人を名乗りながらも自らのアイデンティティーを表明するかのようにその属性(ドメイン)が付けられている。彼らの署名はそれぞれの「表現」として提示されている(さらに言うなら、「(地名)の〜」や「中学生の〜」という命名のしかたは、ラジオの投稿番組で使われるラジオネームに似ている)。


ちなみに『タイガーマスク』のお話の中では青年伊達直人が素性を隠し、ヒーローとなって戦う姿がタイガーマスクなので、贈り主たちはランドセルを寄贈するというハレの舞台で「伊達直人」を名乗ることによって、平凡な日常(ケ)における自分自身をタイガーマスクに重ねあわせる。
そう考えると、おそらくは農家の方であろう「田舎伊達直人」はこの署名によって、自らの日常の生業(ジョブ)である畑仕事をタイガーマスクにとってのリングでの戦いと同じジョブとして、いわばヒロイックにとらえ直すことで肯定しているのではないか。同様に長崎の伊達直人は自らの内にある辛い被爆体験を、中学生の伊達直人はごく普通の中学生という冴えない身分を、タイガーマスク本体でなくタイガーマスクの正体である伊達直人を名乗ることによってタイガーマスク化しえたのではないだろうか。


4.タイガーマスクあしたのジョー──原作者の符合
マンガ/アニメのヒーローへの意識の同化に関してふと思い出されたのは「われわれはあしたのジョーである」という1970年のよど号ハイジャック事件の犯行声明文だ。事件の政治的な意味はともあれ実行犯グループはあの一言によって自分たちを「矢吹丈」=貧しさからはい上がり勝利を信じて戦い続ける勇敢なヒーローに重ねあわせ、マスコミを通じて大衆からの注目を集めた。そのメカニズム自体は今回のタイガーマスク運動と同様だ。
そして、肝心なのはここで「タイガーマスク」も「あしたのジョー」も同じ原作者による作品であることだ。そこに気づけば、このふたつのヒロイックなフィクションの原作者=梶原一騎高森朝雄)がある世代の日本人のメンタリティーに与えた影響の大きさに驚かされる。貧しさを強さに、強さをやさしさに、といった高度経済成長期の日本人の心のテーマが今回のようなかたちで呼び起こされる……その際の符号として梶原一騎が機能するのはなぜか。マンガ/アニメという”描かれ表されたもの”の底流にある”絵ではないもの”は想像以上に大きな力をもっていたことがわかる。


あしたのジョー」に関連して補足しておくなら、寺山修司の劇団天井桟敷はマンガ連載時に劇中で死んだ登場人物・力石徹の葬儀を現実世界で行っている。

原作者の梶原一騎作画家ちばてつやも招かれ参列した。

実在しないボクサーの死を読者が重大な事件として受け止め共有するために、祭壇を前に僧侶が読経し寺山が書いた弔辞が劇団員によって読まれるというパフォーマンスそのものが新しい演劇だったといえるし、同時に夕刊紙や週刊誌の記者が面白がって飛びつくことを意識した劇団のプロモーション・イベントとしても秀逸だった。日付はよど号事件より先なので、犯行グループが(寺山修司に興味があったかはともかく)力石徹葬儀の報道に即座に影響を受けてあの声明文を書いた可能性もじゅうぶん考えられる。
よど号事件も、そしてタイガーマスク運動も”演劇的”であると同時に多分にマスメディアを意識している。当初からプレゼントの置き方がある種のデザインに、「◯◯の伊達直人」といった命名がラジオネームに似た表現に近接していた理由はそのメディア性にある。その意味では次々と現れるアノニマス伊達直人たちは、アンディ・ウォーホルが「未来には誰でも15分間だけ世界的有名になれる」と予見した21世紀のマス=大衆としていままさにここにいる。