タイガーマスク「運動」と「現象」と「騒動」と

伊達直人を名乗るランドセルの寄贈はアノニマス(匿名的)な善意の表現方法として広がり、報道メディアによる加熱がおさまるとあっという間に終息した。

あらためて気になったことを一点だけ補足しておこう。それはメディアにおける言葉の問題だ。

当初、小田原で伊達直人を名乗った人物は確か「これからもタイガーマスク運動が続くといいですね」と手紙に記したはずだが、新聞やニュースなどの中には「タイガーマスク現象」と言い換える報道がみられた。

さらに時間の経過とともに「タイガーマスク騒動」とする書き手も現れた。

「運動」と「現象」と「騒動」。

同じものごとを指しているはずが、これらの言葉の違いは書き手(情報発信者)の見方の違いを表している。

「運動」 movement は、ある共通の目的を社会的に達成しようとする人たちの動き。「学生運動」、「市民運動」など政治的なものだけでなく文化的なもの、とくに美術史においては新しい芸術思想の推進やそれによる社会変革の様相を表すのによく使われる言葉でもある(「シュルレアリスム運動」、「メキシコ壁画運動」など)。
一般的には「共同募金運動」などキャンペーン活動を指したり、「動物愛護運動」、「環境保護運動」など精神的にはイデオロギーではなくモラルに根ざした活動を指す事例が増えている。

「現象」phenomenon は客観的な観測に基づいて認められる事実を指す。学術的な言葉で、「自然現象」や「社会現象」など観測者の意図とは関係なく起きている変化を捉える。「ヒートアイランド現象」など新たな変化動向をとくに問題視し、広く注視や監視を促す際によく使われる。

行為者自身がせっかく「タイガーマスク運動」と提唱したものを、マスコミや社会学者が「タイガーマスク現象」と分析したがるのは一応うなずける。

そして「タイガーマスク騒動」。今回の寄贈や寄付の連鎖を世の中の騒ぎとして冷ややかに捉える書き手が使うケースが多いが、「騒動」という言葉は英語で言えば confusion(社会的混乱)か disturbance(治安的騒乱)、さらにはriot(暴動)など明らかにトラブルを指すので、僕は今回の出来事を「タイガーマスク騒動」という言葉でくくろうとする感覚には一瞬違和感を感じた。その感覚は善くも悪くも日本的なものといおうか。
日本のメディアが用いる「騒動」という表現についてもう少し考えてみよう。


瓦版的な?

日本語の「騒動」は、古くから「お家騒動」「米騒動」など世の中の騒ぎを指す言葉として存在する。そして、この言葉には昔からメディアが関係しているのではないか──もしかしたら瓦版(かわらばん)が好んで用いた言葉なのではないか(いまひらめいたので未調査だが)。
瓦版は天変地異や大火など事件速報に長けたメディアであると同時に心中事件などゴシップも好んで扱ったことから現在のスポーツ新聞やタブロイド夕刊紙の原型だったといえる。
日本語の「騒動」には英語の confusion や disturbance のような深刻さはない。実際今週のスポーツ紙の芸能欄で盛り上がっているのはエジプトの反政府デモではなく「エリカ様離婚騒動」と「KARA分裂騒動」で、それら騒ぎの多くは実体や実害のない”空騒ぎであり、読者の興味関心の熱量は「佑ちゃんフィーバー」と変わりない。
つまり日本のゴシップ・メディアが用いる「騒動」には fever(熱狂的な大騒ぎ)の意味まで含まれている。
伊達直人名義の贈り物の連鎖が「騒動」化していくメカニズムは、瓦版からスポーツ紙まで実はひとつながりのものとして持続している日本の大衆メディアの手癖のようなものかもしれない。


シェークスピア的な?

ちなみに「空騒ぎ」で盛り上がっていく大衆意識の基盤は演劇的でもある。シェークスピアの《空騒ぎ Much Ado About Nothing》の ado は古風な言い回しだが、at doの短縮形でやること・なすことの意。
TV番組名における「恋のから騒ぎ」のような事例にもこの国のシェークスピアの大衆的受容がみられるが、今回の「タイガーマスク騒動」、要は Much Ado About Tiger-mask(タイガーマスク空騒ぎ) といいたいところなのかもしれない。