ビースティ・ボーイズとアメリカ西海岸カルト映像文化再訪

ビースティ・ボーイズ「ホット・ソース・コミッティー・パート2」がらみのカバージャケット・アートワークと映像について『クロスビート』2011年10月号に書きました。(p.172「ビースティ・ボーイズが繰り出す映像とグラフィックの戦線拡大中」、連載「アートワーカホリックアノニマス」)
記事では紙幅が足りずに書ききれないことがあったので、話題と映像ソースを増量してここに記しておく。批評的な言葉は足りませんが、それはぜひ雑誌のほうを読んでください。


まず最初にこちらは2年前に「ホット・ソース・コミッティー・パート1」として発売告知されていた際のジャケット。結局お蔵入りになったまま、誰の作品かは不明。

MCAのがん闘病による発売延期の後、今年発売された「ホット・ソース・コミッティー・パート2」。


パッケージを開封した展開写真。
アートディレクション/イラストレーションはマイク・ミルズによる。ミルズがこれまで手がけてきたジャケ&グラフィック、一言で言うなら“アヴァンかわいい”ですよね。



ミルズとArya Senboutaraj(読み方不明、LA在住のアジア系映像作家)によるオノ・ヨーコのPV。こうしてみると現代の“アヴァンかわいい”の始祖はオノ・ヨーコなのかもしれない。


コラム中で触れたミルズ監督による映画「ビギナーズ」(2011、日本未公開)はこれ。

父子関係やがん闘病は今年の映画のトレンドなのか(「ツリー・オブ・ライフ」、「ビューティフル」etc.いつかじっくり見比べてみたいところではあるが)、ユアン・マクレガー演じる主人公はミルズ本人であるらしく「ホット・ソース・コミッティー・パート2」の内ジャケにも収められているこのドゥローイングを描くシーンがある模様。映画は未見なので詳述は先に送る。


今さらながら「ファイト・フォー・ユア・ライト・リヴィジテッド」(2011)日本語字幕版。キャスティングも演出も最高!

元ネタは1986年のこれ。ロバート・ゼメキス監督の映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」(1985)とともにアメリカの映像がやんちゃで開放感に溢れていた時代(その雰囲気はジョン・ヒューズ監督の青春映画などにもふんだんに象徴されていた)。

このPVの監督はリック・メネロ(後に1988年「タファー・ザン・レザー」を撮る)とアダム・ダビン(1992年メタリカドキュメンタリー映画を撮る)。ヒップホップ映画とメタル映画の二大監督の原点であり、パイ投げシーンは「博士の異常な愛情」の幻のラストシーンのリヴィジテッドでもある。


そして、待望のスパイク・ジョーンズによるアクション・フィギュアを使った新PVがいま公開されている。これも最高!

お馬鹿人形活劇。笑いどころ満載なのだが、これは秘かにトッド・ヘインズ監督がバービー人形を使ってカーペンターズの暗黒面を描いた異色映画「Superstar: The Karen Carpenter Story」(1987)のオマージュなのだと受けとめた。

当初からカルト・ムーヴィーとして名高く、僕は英語のヴィデオのコピーのコピー(のそのまたコピー)くらいのVHSを知人から個人的に楽しむために頂戴して見ていた。でも今やネット上で即座に見られる。

Google Videoには43分全編がそのまま上がっているがいつまであるかは不明

僕がカーペンターズやバービーが好きだというと意外な顔をする人もいるが、それは1970年代のアメリカの光と影への憧憬のようなもので、トッド・ヘインズの映画は1994年のトリビュート盤『If I were Carpenter』とともに、なぜ我々がそれらに魅かれるのかの理由を視覚化したものだといえる。

瞳が大きく描かれたジャケのイラストも、表題『もし私がカーペンターだったなら』も、悲劇のスーパースターへの倒錯感をよく表している。1970年代文化の90年代的な解析アプローチとして狂おしいまでに愛おしい傑作。


1970年代とバービーと言えば、これはバービー・コレクターズ・シリーズの最新の商品。ファラ・フォーセット人形

ファラ・フォーセットは2009年6月25日マイケル・ジャクソンと同日に亡くなった。人形のモデルとなっているのは1976年に販売されたこのポスター。

ブルース・マックブルーム撮影のこのポスターの販売枚数は500万枚とも800万枚以上とも言われるが、赤い水着のこのポスターでファラはこの時代のセックス・シンボルとなった。最近、写真家からスミソニアンに寄贈されたというニュースもある。

ヨコハマトリエンナーレの略称について、あるいは横浜イメージ試論



この期に及んでとやかく言っても仕方のないことはわかっているが、それでもやっぱりヨコハマトリエンナーレの略称「ヨコトリ」が馴染めない。字面が何か「ヨコドリ(横取り)」するみたいだし、略すならどう考えても「ハマトリ」が正しいはずではないか。

横浜生まれの横浜育ちなら「ハマっ子」横浜銀行は「はまぎん」。横浜の探偵はといえば濱マイク横浜ベイスターズ関連では「ハマの大魔神といえば佐々木主浩ハマの番長といえば三浦大輔。サッカーの横浜F・マリノスのサポーターは「ハマトラ」。マンガ『サーキットの狼』に登場するカウンタックは「ハマの黒ヒョウ」で、中尊寺ゆつこの4コマはハマのメリーJぶらいじさんだった。


 ©池沢さとし集英社

 


横浜は略せば「ハマ」。この事実に間違いはない

何しろ市章にだってハ マと書いてあるではないか。

この市賞は明治42年開港50周年を記念して市民から公募されたもの。「ハ」「マ」の二文字が縦に積まれるようにデザインされている。通称「浜菱(はまびし)マーク」。横浜市ホームページ

横浜市水道局の製造する横浜オフィシャル・ウォーターは「はまっ子どうし The Water」。緑区の青山取水口から採る道志川山梨県道志村が源流)の清流水を使用。


「ハマ」はときに「浜(ヒン)」と読まれる場合もある。「京工業地帯」に始まり、「京急行」(現在は「京急電鉄」に社名変更)、そして国道15号は「第一京」、国道1号は「第二京」、玉川から保土ヶ谷までは「第三京」と呼ばれる(いずれも読みはケイヒン)。同じなりたちの呼称に「京葉(ケイヨウ)」があり、いずれもエリア的な広がりを指す。
 


「横(ヨコ)」は“ハマの外”からの名づけ

にもかかわらず、横浜を「横(ヨコ)」と略すものがある。渋谷と横浜を結ぶ電車は「東線(トウヨコ)」、首都高速神奈川1号は「羽線(ヨコハネ)」、横浜横須賀道路は「横線(ヨコヨコ)」といったもので、おそらくハマ名称に比べると数的には少ないが、道路地図や標識でよく目にする名称として「」の字が「横浜」の略であることはわかりやすい。ただ、東急電鉄東横線が東京から南西に延伸された路線であるように「(ヨコ)」略称は東京側から、ないしは全国区に向けた顔として名づけられたものが多いように思う。
横浜国立大学を「横国(ヨココク)」と呼ぶのも一種の“中央集権的”な命名に思える。なぜなら、対する地元公立大学である横浜市立大学は伝統的にその校歌の歌詞には「浜大(ハマダイ)」とあるし学園祭の名称は「浜大祭」のはずだ。ただ、浜松大学(ハマダイ)との混同を避けるかのように「横市(ヨコイチ)」なる呼称のほうが通例化しているようだが、これは大学内部というより受験産業の中で「横国(ヨココク)」との並びから生まれた略称が受験生に浸透していったものと思われる。横浜をハマと略す慣習を知らない全国の受験生にとって横浜の略はヨコと統一したほうがわかりやすく利便性が高まる。


ちなみに横浜市立大学新聞は『市大新聞』、大学のマスコットキャラクター(ヨッチー)の胸には「ヨコイチ」の文字がある。ヨッチー・オフィシャルサイト
また、高校名では「横高(ヨココウ)」といえば古くは神奈川県立横須賀高校を指したが、野球名門校の横浜高校が甲子園出場によって全国的に知られるようになって自他ともに「横高(ヨココウ)」を称するようになったのもおそらく「横(ヨコ)」略称が全国区において横浜の略称になったことと関係しているのではないか。

「ハマ」から「ヨコ」へ──埠頭から坂道まで拡がる横浜の地理的イメージ

繰り返すようだが昔ながらのハマっ子は自分たちのアイデンティティーを「」の文字にはあまり託したがらないはずだ。その理由のひとつは横須賀との混同を避けるためであり、ゆえに横浜は「ハマ」、横須賀は「スカ」と略す。ファッションでいえば横浜元町のニュー・トラディショナル・スタイルは「ハマトラ」、横須賀の米兵刺繍ジャンパーは「スカジャン」といった具合に。ちなみに、横須賀市民が自分たちの街を「スカ」と呼ぶことはほとんどなく、むしろ「横」を用いてきたようだ(前述のとおり古くから「横高(ヨココウ)」と呼ばれてきた県立横須賀高校は、いまは横浜高校との混同を避けるため「県横(ケンヨコ)」と呼ばれるが、呼び名は変われどここでの横須賀の略称は「」であり続けている。ただ、最近気になるのは、あくまで「ハマ」との対置から生まれた外的命名だったはずのスカの定着で、たとえば「ハマっ子」に対抗するように「スカっ子」を自称する若者の出現が見られる)。
横浜市は戦後港湾から離れた丘陵造成地のニュータウン人口を増やしてきた。転入市民は「ハマ」名称へのこだわりはないし、東急東横線沿線ならむしろ「ヨコ」名称のほうが馴染みがあるだろう。埠頭でケンカでもしそうな勢いのハマっ子は江戸っ子と同じくらい時代遅れな印象すらするし、いつの頃からか「ヨコ」のほうが陸側にも拡張した横浜市広域を指すのに便利になってきた。東海道新幹線の新横浜駅港北区)をハマというには無理があるが「シンヨコ」といえばそれはイメージに合う。
ハマとスカが並べて歌われた時代(「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」1975年)はとうの昔になり、いま全国区で聴かれる横浜はといえばゆずの「夏色」の坂道だったりするわけだが、磯子区の長い長い坂道の風景はとても「ハマ」とは呼べないがハマの外から名づけられた「ヨコ」の範疇には道理で収まる。「ハマ」が廃れて「ヨコ」の利便性が増してきた理由はまさにこうしたところにある。
 


最初は確かに「ハマトリ」と呼ばれていました(事実)

横浜トリエンナーレも当初は「ハマトリ」と呼ばれていた。少なくとも私(たち)はそう呼んでいた。第1回の「横浜トリエンナーレ2001」開催時、『美術手帖』には開幕8か前の2001年2月号から閉幕まで「月刊ハマトリ」というタイトルの新聞形式のレポート記事が連載された。新しく聞き慣れない事象はカタカナ四文字に縮まると急速に認知を広げて定着する(コンビニ、デジカメ、ケータイ、プリクラ、リストラ、インフラetc.)というギョーカイの定説にならって、編集部が非公式ながら早々と創り出した愛称「ハマトリ」は読者や他のメディアにもそれなりの浸透と定着をみせた。しかし、第2回の「横浜トリエンナーレ2005」から主催者側がオフィシャルな愛称として「横トリ」を使い始めたことで各メディアは「ハマトリ」を「横トリ」に改めざるをえなくなった。第3回「横浜トリエンナーレ2008」も同様で、今年第4回からは正式名称の「横浜」がカタカナに改められ「ヨコハマトリエンナーレ2011」となり、愛称としてはカタカナの「ヨコトリ」が使われている。
横浜トリエンナーレをきっかけに生まれた市民団体YCAN(ヨコハマシティアートネットワーク)の広報活動グループは当初「はまことり」(ハマトリからの派生であろう)という愛称を名乗っていたが、それも2009年以降「Take Art Easy![TAEZ!]」という新名称でフリーペーパーとラジオマガジン、ユーストリームでの情報発信を行っている。[TAEZ!]と書いて「たえず」と読むのだがそこにはもう「ハマ」も「横」もない。発信源がどこかではなくサステナブルな姿勢のみが前面に押し出されているのが今風といえる。
 

先日、ヨコハマトリエンナーレ2011の出品若手作家のひとりと話をしていたとき、私は無意識に「ハマトリ」と口にしていたらしく、相手から「あ、やっぱり!(笑)」と指摘された。聞くと元某雑誌の副編集長氏もやはり「ハマトリ」と言っていたのだという。どうやら2001年の第1回から知る世代、とくに活字媒体に関わった者は今もついつい「ハマトリ」と言い続けてしまうようだ。
ハマトリ」はいまや絶滅の危機にある。というか「ヨコトリ」のほうがより広範なイメージを投影しやすい後発の新種として着床し枝葉を茂らせてしまった。「横(ヨコ)」のほうが県外の全国区の観客に対してもわかりやすい、いわばよそ行きの顔であることは先にも述べた。であれば「ヨコトリ」はまさに外面としてうってつけなのだが、それでも文字を扱うことが仕事の私には、字面的にも、語呂的にも、そして地誌的・文化誌的に照らしても「ハマトリ」のほうが開催会場のある横浜港一帯に馴染む気がしてならない。
これは日本を代表する国際美術展の開催地である横浜のアイデンティティーの問題であることは言うまでもないが、それは主催者である横浜市という行政の話というより、会場およびその周辺となる港町ヨコハマ(西区・中区の市街地および港湾一帯)がアートを媒介にして文化的に何をとらえ直し/いかに提示し直すかという内省的かつ対外的な表裏一体の問題だと思うからだ。国際展とはいえ、ただ会場立地の条件に優れているだけでローカルな着床が浅くては長続きはしない。「ヨコ」が全国区に向けた横浜の外交的な顔だとしたら、「ハマ」は港町ヨコハマのローカリティに根ざした草の根的な足といえる。無論、海外から見ればYokoだろうがHamaだろうがそこに差などあるはずもなく、だからこそこれは世界でも日本でも東京でも大阪でも京都でも名古屋でもない、きわめて横浜的な問題としてハマっ子の前に突きつけられているのだともいえる。目覚めよ、横浜!


[追記 8/22]横浜スタジアムの略称について
  
ヨコトリ」と「ハマトリ」同様に略称が乱立し混乱しているものに「横浜スタジアム」があることに気が付いた。横浜ベイスターズのホームである横浜スタジアムのことを球団やTBSラジオは「ハマスタ」と呼称しているにもかかわらず、世間では「横スタ」と呼ぶ人が意外に多いらしい。「ハマ」名称がオフィシャルであるにもかかわらず「」名称が自然発生する傾向はヨコハマトリエンナーレとは裏返しの図式かもしれないが、いずれにせよ「ヨコ◯◯」のほうが今っぽい響きというかさっぱりとした語感があって、いまどきハマはないでしょう的な共通感覚が転入市民や若者を含む最近の“横浜の中の人”たちにはあるらしい。
昭和40年代くらいまで横須賀の略だった「」が、横浜のエリア拡張とイメージ的な全国区進出とともに横浜の略号として乗っ取られ「ハマ」のもつ求心力が衰えていく。「」を奪われた横須賀は代わりに外的命名であったはずの「スカ」を自分たちのシンボルとして獲得していったことになる。
ちなみにベイスターズの二軍本拠地である横須賀スタジアムは「スカスタ」と略されるのが通例だが、これが一時神戸スカイマークスタジアム(現・ほっともっとフィールド神戸)の略称スカスタと混同するという問題を生じたこともあった。当の“スカっ子”たちは横浜に「横」を奪われたことすら忘れてしまっている。目覚めよ、横須賀!

アトミックサイト展に見るアノヨとコノヨ

イルコモンズ監修「アトミックサイト」展(公式ブログ)は混沌としている。だが、この混沌は私たちの生きるいま・ここを可視化したもの。私たちは今夏こんな日常世界を生き抜いているという見えなかった現実の体感装置。














アトミックサイト展によって2011年の現代美術製作所はまるで1980年代末に大森にあったレントゲン藝術研究所を思わせる光景になった。これはかつてを知る多くの人に共通する感想でもあったが、この展覧会はそのほかにも、博物館、資料館、秘宝館、ゲーム・アーケード、夏祭りの縁日屋台、お化け屋敷などさまざまな“見せ物”を思わせてくれる。あるいは何か大惨事に対する追悼祈念施設に見られる再現ジオラマのように。それはこの世とあの世、現世と来世、見える世界とまだ見えない一瞬先の未来をつなぐ魂の体感装置なのではないか。

古代芸術や宗教美術が司ってきたその役割は近代美術のなかにも抽象的で純粋な機能としてインストールされてきたが、ここにきてその機能は再び具体的で純粋でない様相を帯びてくる。「純粋でない」ということはネガティヴな意味ではない。ここでの「純粋」の反対語は「応用」であると同時に「混沌」であり、現実的(リアル)ということである。

会期が延長された。20日まで公開中。現代美術製作所


[おまけ Bonus Track]帰り道にこんな光景を見かけたので思わず撮影してしまいました。

「電気は大切なエネルギーです。ムダのないように使いましょう。」って、これは電光掲示板で言われたくない(苦笑)。
今夏オフィスや公共施設にもさまざまなエコ・節電標語が掲示されているが、いずれも紙にカラーレーザープリンタで出力したものであったりしてどうかと思う。墨と毛筆を使わなくなった現代人の多くはこういった矛盾に気づかない。

オノ・ヨーコへのインタビュー


美術手帖2011年9月号・特集「オノヨーコ」に寄稿しました。7月21日に行った電話インタビュー構成「interview 2 From New York “空の無限は、私たちの無限。私たちはみな、無限の力を持っている”」(pp.66-71)と、コラム記事2編「KEYWORD 03 魂の片割れ──ジョンとの出会い」(p.87)、「KEYWORD 04 ヨーコの音楽──アヴァンギャルドからポップまで」(p.89)。

オノ・ヨーコへのインタビューは僕にとって3度目になる。1回目は確か1990年、日本での25年ぶりの作品発表だった草月美術館「踏絵」展のときだったろうか。当時の1990年8月号に掲載されている美術評論家の清水哲朗さんによるオノ・ヨーコ論には部分的に「インタビュー取材」としてオノ・ヨーコの言葉が引かれているが、このときのインタビュー(皇居近くのホテルのレストランでランチタイムの喧噪のなか行われた)は編集者が執筆者のための下調べのために事前に行ったもので全文は掲載されていない。今にしてみればたいへんもったいないことだが、当時は作家の生の言葉をそのまま掲載するより、編集部が依頼した評論家の視点を介して論述してもらうことのほうが作家にも読者にも意義ある記事だと考えられていたためだ。清水哲朗さんにはこのときお礼に当時既に絶版だった新書館版『グレープフルーツ・ブック』のコピーをきれいに綴じてもらった私家本をいただいた。それはずっと僕の個人的な愛読書として書棚に置かれ、いまもよく手元に引き出される。
この後、編集長時代に第一回横浜トリエンナーレ出品の際に他のスタッフに取材をしてもらったり、特集号(2003年11月号「オノ・ヨーコ 未来に贈るIMAGINEの力」)を組んだ後、2回目のインタビューは十勝千年の森での「SKY TV for Hokkaido」とギャラリー360°での個展「 We're ALL Water」の際に、すでに編集部を辞めていた僕はライターとして署名記事を寄せた(美術手帖2005年12月号)。《イマジン・ピース・タワー》の構想はすでにこのとき聞かせてもらっていたので、今にして思うとあのとき頭の中で組み立てられたタワーが僕にとっての《イマジン・ピース・タワー》の鑑賞体験だったといえる。彼女の語り口には想像(イマジン)による仮想的でしかもそれがゆえに純粋な”体験”を誘う力がある。それは今回、広島の展覧会の準備が始まる前に行われた電話インタビューでも同じで、僕は会期前から頭の中で「希望への路」展の会場構成を組み立てては歩くことができたのだった。

生きとし生けるものの生(LIFE)と芸術(ART)

先月行われた「生きてる実感Vol.3〜信じる力〜」第二部・芹沢高志さんとのトークショー「生きとし生けるものの生(LIFE)と芸術(ART)」の冒頭で、プログラムにはない演目としてふたりでフルクサスのイヴェントを再演した。素人パフォーマーなのであくまでトークの導入のための余興としてだが。


まずは僕からステージに。ボトルを円環状に並べ、一本だけ水の入ったボトルを空のボトルに順番に注ぎ移していく(トマス・シュミットの演目「循環」)。


一周したところで、芹沢さんが持ってきた土瓶に水を注ぎ移す。

今度は芹沢さんが土瓶を持って脚立の上からボウルに注ぎ落とす(ジョージ・ブレヒトの演目「ドリップ・ミュージック」)。

水を媒介とするふたつのスコアを演ることを最初に提案したのは僕だったが、これを同じ水を使ってバトンを渡すように連結するというアイデアは、当日の打合せで芹沢さんから出された即興的な演出だった。これが功を奏したこともあり、公演後、参加アーティストの陶芸家の金理有くんは水を回していくさまが茶の湯のようで、器の役割が見えたと言ってくれた。器を作る人の解釈を聞いて、演ってよかったとようやく胸を撫で下ろせた。


トークは、7人のアーティストたちによるパフォーマンス終演後、彼らの生(なま=LIVE)の表現について言葉を足すことで、観客たちに次なる芸術体験へと向かう扉や鍵穴の位置を指し示すような話ができたらと考え、ビートニクフルクサス、つまりは前衛芸術と精神世界がひとつのバスに乗って自由への一歩を踏み出した20世紀後半のアメリカのことから話を始めた。
僕には「未来へ」号に乗って全国を回る遠藤一郎や、完成作品よりも創作の瞬間に降りてくるミラクルを信じるがゆえに展覧会ではなくイヴェントという形式での発表にこだわる海野貴彦らの姿が、どうもケルアックやフルクサスに重なって見えてならない気がしていたからだ。自由や解放へのアプローチの仕方が(政治的・思想的でなく)詩的であり、その表現のスタイルが(職能的・産業的でなく)DIY的であるところが、太平洋と半世紀の時を越えて双方に共通する生(LIFE, LIVE)の実感ではないかと思う。
そして、芹沢さんのフラーやケージなどをつなぐ地球的な視点の背景にアメリカの20世紀の文化史/精神史の存在を感じる僕としては、今の日本の若いアーティストの行為とその精神の存在理由を芹沢さんにぜひ聞いてみたかったというわけだ。

トークの内容はUst動画が残っているが音声が聞き取りにくいのでこれはいずれ文字に起こせるといいと思う。
また、第一部のアーティストたちのパフォーマンスのことが後回しになってしまったが、誰もが想像した以上に生々しく壮絶な表現の激突が繰り広げられたことはここに特筆しておく。その場に居合わせ、その瞬間を目撃した観客たちが持ち帰ったものは、まさに演者が提示しようとした「生きてる実感」で、確かにそれは言葉にしがたい/言葉を超越した感覚だったのだが、そのことについては映像等の編集の準備がなされた後にまた記してみたい。

芹沢高志さんとのトーク



今日の夜、芹沢高志さんとトークをします。3月の生きてる実感Vol.3緊急チャリティートークに引き続き、いよいよアーティストたちによるライヴ・パフォーマンスが見られます。トークはライブ終了後、30分の休憩をはさんで20:30くらいから始まる予定。せっかくの機会なので芹沢さんといっしょにちょっとした出し物も演じてみようと用意しています(サプライズ・プログラムなのでこれ以上は書けません)。
以下、主催者側からの告知テキストを転載しておきます。

    *

「生きてる実感vol.3 〜信じる力〜」
日ごろ100年、200年と儚い己の命より長く生きていく制作物を作っているアーティストが、作品を生み出す煌く瞬間をみせ生きてる実感を伝える、舞台・映画を見る感覚で楽しめるライブパフォーマンス。
◎ライブ・パフォーマンス
開場 17:30 開演 18:00〜20:00
[出演]遠藤一郎 海野貴彦 金理有 桑田卓郎 信長 平井友紀 横山玄太郎 deco picha boco
出演者のプロフィールはこちら
◎ライブ終了後特別対談
「生きとし生けるものたちの“生(LIFE)と芸術(ART)”」
芹沢高志(アートディレクター) × 楠見清(美術編集者)
3月11日の東北地方太平洋沖地震発生以前に『Think the Earth Paper』というフリーペーパーに芹沢高志氏が『ひとつの時代が終わろうとしている』とのタイトルから始まる文章で、”物質的な意味での縮小は恐れるに足らない。絶対に避けねばならないのは想像力の縮小なのだが、現実はその逆になっている。”と言葉を寄せており今、この人の話を聞かなければならないと共鳴、確信し、「生きてる実感、をする」=「豊かに生きていく」為には?の問いに向かうべくお招きし、言葉を引き出し新たに組み立てる専門家の楠見清氏との対談が実現しました。
体を使ったライブ、言葉のライブ、余すことなく生きてる実感を伝えます。
どちらも併せて楽しんでもらえたらと願います。

料金 :当日2,500円/1ドリンク付 ※小学生以下無料 
場所:M EVENT SPACE & BAR 
〒150-0021 東京都渋谷区恵比寿西1-33-18 コート代官山B1
Tel : 03-6416-1739
web:www.m-event-bar.com
東急東横線「代官山」駅から徒歩3分。東急東横線「中目黒」駅から徒歩5分。JR山手線・地下鉄「恵比寿」駅から徒歩6分
[オープニング映像] Shige-KiXxxxxx
[DJ] Masaomi Kawamura
[演出・構成] ハラダアツシ
[企画・構成] 海野貴彦

デザイン・フォー・オール──共有と共生のための「共用品」のデザイン

これからのデザインに必要なことは何だろうと考えていたら「共用品」という言葉に行き当たった。子どもも大人も高齢者も障害者も身体的な特性にかかわりなく、多くの人がともに利用しやすいもの。英語ではアクセシブル・デザイン(使いやすい設計)と呼ばれバリア・フリーやユニバーサル・デザインを包括する考え方として広まってきている。デザイン・プロダクトのアクセシビリティーについて考えるための本を紹介しよう。

『共用品という思想──デザインの標準化を目指して』』(後藤芳一+星川安之、岩波書店)は20年前から日本で共用品の必要性の調査・普及に努めてきた二人の著者(当時玩具メーカーの社員だった星川安之と通産省にいた後藤芳一)によるもので、民間と行政の壁を越えた勉強会から始まった共用品推進の歴史とその理念をまとめた一冊だ。共用品は障害のある人だけでなく、誰もの日常において目的へのアクセスを容易にする。身近な事例では、シャンプー容器の側面にあるギザギザは洗髪中でも手探りでリンスの容器との区別を、携帯電話の5のキーにある小さな突起は暗闇でも操作を可能にするように。こうした工夫は日本では古くから、たとえば柏餅の小豆あんと味噌あんを柏葉の表裏で区別するなどの決めごとに見られるという。共用品の思想とはものづくりやサービスの中に本来あるべき思いやりの文化でもある。

 みんなが使いやすいもの=共用品をつくることは新しい公共性をデザインすることなのではないか──ここから先はペトロスキーの『〈使い勝手〉のデザイン学』(ヘンリー・ペトロスキー著、忠平美幸訳、朝日選書)の出番だ。ペトロスキーは『鉛筆と人間』や『本棚の歴史』など日用品の変遷から文明史をたどる著作で知られるが、本書ではグラス、ペーパーカップ、車のカップホルダー、歯ブラシ、レジ袋といった身の回りのデザインがどうして現在のかたちになったかを解き明かしていく。これがひじょうに面白い。デザインには完璧などありえない、むしろ欠陥があり、使い勝手が悪かったからこそ改良の歴史が生まれたという視点はまさに使いやすさ(アクセシビリティー)のデザインと同じ根をもつ。著者の観察はさらに扉ノブと電灯スイッチの高さ、スーパーマーケットの動線にも向けられる。住居設備や公共空間の設計は人の行動やサービスをデザインすることにつながる。
 原題《Small things considered(よく考えられた小物類)》はアメリカ入植時代の記録簿で値打ちのない日用品をひっくるめて《Small things forgotten(その他小物類)》としたことに由来する。道具や小物からアメリカ文化史を読み解く眼差しはどこか片岡義男に近い。自ら撮った道具の写真までもが、だ。


道具を使うことで進化したヒトによるモノの進化史を考えるための+3冊

フォークの歯はなぜ四本になったか (平凡社ライブラリー)
『フォークの歯はなぜ四本になったか──実用品の進化論』
H・ペトロスキー

かつてフォークは三本歯であり二本歯でありそれ以前は両手にナイフを持って肉を切り刻んで口に運んでいた。ペーパークリップ、安全ピン、ファスナー、缶飲料のプルタブなどの失敗と改良の発明史。共用品の長い前史として読むと視界が広がる(平凡社ライブラリー)。


彼らと愉快に過ごす―僕の好きな道具について (ビーパル・ブックス)
『彼らと愉快に過ごす──僕の好きな道具について』
片岡義男

本文中の末尾で触れた片岡義男のエッセイはたとえばこれ。衣食住の日用品や文具や工具やカメラなど108の道具の使い方。60年代若者文化のバイブル『ホール・アース・カタログ』の副題が「道具へのアクセス」だったことも想起される。大切なのはアクセシブル(小学館、古書のみ)。


本は物である―装丁という仕事
『本は物(モノ)である──装丁という仕事』
桂川

デザイン好きの愛書家への最後の選書はこれにしよう。知の共有のための書物もまた共用品としてデザインされたプロダクトだった。電子ブックの文字拡大や音声読み上げ機能は書物のさらなるアクセス向上なのだが、ならば書物の物質性とは何なのかをあえて問おう(新曜社)。


*以上は月刊『リアルデザイン』の書評欄のために執筆した原稿だが、事情により未掲載に至ったので再構成してここに公開することにしました。