北京五輪開会式:蔡國強の花火のCG問題を推論する――真偽を越えて

donburaco2008-08-13


8月8日の北京オリンピックの開会式の「演出」に関して、意外な事実が事後報道された。


開会式の足跡花火…実はCGの合成映像でした《読売新聞》
 8日に行われた開会式の際にテレビで放映された、北京市内の上空を歩く、花火で描かれた巨大な足形「歴史の足跡」は、実はコンピューターグラフィックス(CG)による合成映像だったことが分かった。
「歴史の足跡」は、北京五輪が29回目の夏季五輪に当たることから、歴史の巨人(=五輪)が北京に到着したことを表現。足跡の形を打ち上げ花火で作り上げ、天安門広場からスタートして29歩目にメーン会場の国家体育場(愛称・鳥の巣)に到着する演出だった。映像は開会式の冒頭で55秒間流されたが、最後に「鳥の巣」から打ち上げられたもの以外はすべてコンピューターによる映像だった。花火は各地で実際に打ち上げられていたが、映像自体は約1年間かけて製作された合成映像だった。規制で上空からの撮影ができないための演出で、当日夜のスモッグでかすんだ状況を忠実に表現するために気象台に助言を求め、上空からヘリコプターで撮影したように見せるためにカメラを微妙に振動させる処理もしていた、という。
 12日の記者会見で、この件について聞かれた北京五輪組織委の王偉・執行副会長は「あの日は天気があまり良くなかったので、そうだったかもしれない」と、CGであることを事実上認めた。英紙「デイリー・テレグラフ」によると、この映像は北京五輪放送機構(BOB)が作製したという。(読売取材団)[2008年8月12日15時21分]


実はCGと明かされた映像はテレビのニュース映像でも繰り返し流された。あらためて見てみよう。TBS「ニュース23」より。


これと同様のニュースは世界中に配信され、同じく開会式に出演した9歳の少女の歌声が「口パク」だったという顛末とともに、中国国内でも賛否両論を巻き起こしている様子だが、こと日本のスポーツ紙やワイドショーやネット上の書き込みでは昨今の中国産の食品安全性の問題を連想させる「偽装」という言葉までもが使われていることが気にかかる。そもそも日本のメディアが昨今好んで使っている「偽装」と言う言葉は、マンションの耐震強度偽装事件を発端とし、段ボール肉まんというゴシップを経て、中国製違法コピー商品などに転用された言葉なので、CG合成映像を「偽装」と称するには用法上乱暴すぎる(ちなみに上に引用した新聞やTVはさすがに報道の良識があるので、そのあたりは慎重に言葉が選ばれており「偽装」という言葉は使われていない)。


日本でのネット上での反応としては「北京オリンピック開会式の花火による『巨人の足跡』は本当にCGだったのかどうかを検証してみた」といった検証記事も上げられており、世の中の関心はだまされた感よりも、へえ、あれがCGだったなんて!ウソー!ホントー?という驚嘆に帰着しつつあるようだ。
ただ、ちょっと考えてみれば、そもそも「実はCGでした」という事後報道が中国側から配信されたものだとしたら、それはむしろ中国のCG技術を世界中にプロモーションするという最終目的として企図されていたものだったのではないか、と裏読みしたくなる。

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ここからは僕の私見を交えた上でのさらなる裏読みだが、今回のオリンピックの開会式はもともとスティーヴン・スピルバーグがアーティスティック・アドバイザー(芸術顧問)を務めるはずだったのが、2007年4月中国政府のダルフール紛争への対応の不備を非難してスピルバーグがボイコット辞退したことで、その後任を急きょ張芸謀チャン・イーモウ)が務めることとなったものだ。――と、ここまでは日本のマスメディアでも報道されているが、問題の花火が現代美術家の蔡國強(ツァイ・グオチャン)によるものだということまでは僕の見たところ報道されていない。これは日本の記者の勉強不足と言うよりは、おそらくは北京五輪機構がプレスに流す情報において重きを置かれていないのではないかと想像される(開会式の生中継のアナウンサー用のシナリオはあらかじめ各国のTV局に提供されているはずなのに花火の作者の名がアナウンスされなかったのは、おそらくそこに蔡國強の名前は入っていなかったのだろう)。
NYを活動の拠点とする蔡については、米国のメディアだけが開会式以前から独自に取材をしていた模様だ。たとえば、これはCNNによるアジアを主題にしたインタビュー番組。

他のどの国よりも米国のメディアが蔡國強にスポットを当てているのは、今春グッゲンハイム美術館で大規模な個展をしていたこともあって米国での知名度が高いせいもあるし、米国には北京五輪の晴れ舞台に蔡を送り出す支援者がたくさんいるからに違いない。言うまでもなくそれはNYのアート・マーケットに一枚噛んだ投資家たちの総意でもある。


僕の記憶によれば(正確に資料を調べ直す余裕が今ないのだが)蔡國強の起用はスピルバーグの時点ですでに決まっていたことなので、当初はハリウッドの映画監督とNY在住の蔡という地理的に結ばれたUSAラインが、芸術演出がチャン・イーモウに変わった時点で、中国出身で世界的に高い評価を得た映画監督(チャン)と現代美術家(蔡)という出自的なチャイナ・コネクションに書き換えられてしまったことを――その善し悪しはともかくとして――3月に日本のテレビで放映されていた取材番組でチャン・イーモウが「メイド・イン・チャイナ」を合言葉に掲げ「中国人の手で開会式を成功させたい」とその立場を表明していたのを見て、僕は感じていた。
スピルバーグがやったならどんなものが出来上がったのかはわからないので比較はできないが、今にして思えばそれは地理的/出自的な軸の転換というよりは、おそらくは演出上の主眼の変更を引き起こしてしまった。CGや吹き替えまでを演出(=手法)として使ったチャンが目指したものは、開会式イヴェントのライヴ・パフォーマンスの演出ではなく、全世界のTVモニタに映される最高の映像コンテンツの提供であったと考えるべきだろう。


いっぽう、蔡がおそらくは当初から打ち出していたであろう29歩の足形の花火が天安門広場からメインスタジアム(鳥の巣)まで近づいてくるというイメージは、1896年にギリシアアテネで第1回大会が行われてから戦争による中断をはさみ29回目の夏季大会を表したもので、歴史的かつ空間的なスケール感は、過去の作品を知る身としてはたとえば《万里の長城を1万メートル延長するプロジェクト》(1994)のさらなる延長線上での爆発にも思え、いかにも蔡らしい。無論、それは彼の数々の花火パフォーマンス同様にライヴで行われることを前提としていたはずであり、実際、29の足形を夜空に浮かび上がらせること自体は技術的には可能だったはずだ。
むしろ不可能だったのは、航空管制や不確定な天候や危険性といった複合的な問題で、爆発する29の足形すべてを追うように空撮ヘリコプターを飛ばすことであり、チャンはそこでイメージ通りの「絵」を中継にのせるためにCG映像との合成を選んだというのが真実だろうと僕は思っていた。

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ところが、真実はさらに別のところにあった!
「29の足跡のうちメインスタジアムに近い最後のひとつだけが本物だった」という一昨日の報道に対して、中国では「あの足跡の花火は本当に上がっていた」という証拠映像が公開されているのだ。

もしこの映像が本当ならば、29の足跡の花火は実際に上げられていたが絵にこだわるあまり中継映像はCGに差し替えられたということになる。いくつかの天候に応じて複数のCGが用意されていたことも多いに想像できる。
ただ、これすらがまたCGによるネタなのかもしれないという疑問も実はあるわけで、実際に現地で見ていない以上これ以上の結論は僕にはもう出せない。確かなことは、ここでのモンダイは最初から「何がリアルで/何がフェイクなのか」という真偽の二元論ではなく、ましてやその「演出」の善悪でもなく、あるイメージをライヴとして具現化することと/映像として具現化すること、つまりはリアライゼーションにおけるメディアの相違の話なのだ。


そう。もし、巨人の29の足形の花火もまた本物だったとしたら、ライヴと映像という2つのリアライゼーションの間で手柄の取り合いがあったことが想像できる。
あれを、NYで世界的に活躍する中国人現代美術家による作品としてではなく、メイド・イン・チャイナのCGとして売り出したい勢力が抜け駆けでリーク報道をしたのではないか、という気がしてならないのだ。


さて、僕がここで書いたことはどこまで当たっているか/外れているかはわからない。いつか蔡さんに再会することがあったらぜひとも彼自身の口から真実を聞かせてもらいたいし、そのことを目的としたインタビューを誰かがしなくてはならないと思う。
ただ、それは8月24日を待ってからにすべきだろう。なぜなら、蔡さんは開会式とともに閉会式の美術演出も担当している。もしかしたら、開会式の華はチャンに持たせ、閉会式のほうこそ中国文明と人類の戦争から宇宙開発までを推進した火薬を素材とした蔡のファイヤーワークの盛大なるライヴ・パフォーマンスで締めくくられるのではないか。そんな気がする。

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最後にお見せしておきたい映像はこれ。先月行われた開会式リハーサルを北京市民が撮影したビデオ。テイトモダンやNYでの蔡國強の花火パフォーマンスを知る人にはむしろこれだけ(足跡なし)でも充分に蔡の作品らしさが見てとれるのではないか。そう、花火は盛大に、威勢良く、そして何よりおめでたいものでなくては。夜空に響き渡る花火の爆発音に応えるかのように鳴り止まぬクラクションの響きがその証左だ。

彼自身がそのことを意識しているか否かはともかくとして、私たちは蔡の「原初火球」のなかに、最もモダンなプリミティヴィストである岡本太郎のあの名言、「芸術は爆発だ」を想起しないではいられない。僕はまだまだ、がっかりすることなく、閉会式を心待ちにしている。