「未来へ」向かわなければ、未来は無し

donburaco2011-02-18

遠藤一郎のパフォーマンスについて書いた『クロスビート』2011年4月号が発売されているのでぜひ読んでほしい(p.170連載アートワーカホリックアノニマス「ぼくらをのせてどこへ行く 進め!遠藤一郎の冒険」)。

内容は2011年1月に同時多発的に開催された「大・遠藤一郎展」から1月21日にisland MEDIUMで行われたライヴ・ペインティングのレビュー。記事はモノクロページなので、ここではアルバム代わりに未使用写真を含めてアップロードしておこう。

 あァ────────────ッ

 バン!バン!バン!バン!バン!バン!



  自◎由

  ボーダー
  こえろ

あらためて思うに、彼の行為の芸術については写真や映像で記録されることはあっても言語を用いて記録されたものはまだ少ないのではないか。告知動画の撮影と共有が手軽になったぶんブログやツイートで即時的に記されることは多いが活字媒体の役割が変わってきたのもあるし、遠藤一郎のパフォーマンスを見ることは言語的理解を超えた原初的な体験であることもまた理由のひとつだろうが、今回僕はあらためて自分がその場で観て・聴いたことをあえてテキストに書きおこすことを自らに課してみたつもり。

パンクの初期衝動とDiY精神の明るい活用

ちなみに掲載媒体がロック雑誌ということもあり、今回僕は遠藤一郎の表現方法がパンクと同様に技巧(テク)の対極にあるもうひとつの究極の表現なのだということを文中に記した(そしてその主張はオノ・ヨーコとよく似ていることも)。偶然か──はたまた何かの必然なのか──同じ16日発売の『美術手帖』2011年3月号の遠藤一郎連載「愛と平和と未来のために」は見開きページいっぱいに一郎くんの荒々しい字で「PUNK」と大書されていて驚かされた。

遠藤一郎が掲げる「GO FOR FUTURE」は意味的にはロンドン・パンクの合言葉だった「NO FUTURE」の真逆を指すが、実は同じDiYの手法で支えられていると僕は思う。その証左としてたとえばこんな写真はどうだろう。

上2点はマルコム・マクラーレンがプロデュースしたヴィヴィアン・ウェストウッドによるファッション。手書きのメッセージ、ジェイミー・リードのパンク・グラフィックなどをモチーフにしているが、一郎君たちのプライヴェート・ブランド「多摩川カジュアル」に通じるものがある。35年の時を経てロンドンから東京へ飛び火したDiY。これもまた意図せぬ偶然的必然のニオイがする。